誰が?何時?
ー古王国時代の絶対年代の決定方法ー
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エジプト考古学の正統派学者の説によれば、新石器時代の後半、ナイル川の上流(南)と、その河口のデルタ地帯(北)でそれぞれに芽生え、発展した二つの王国、上エジプトと下エジプトが、今から凡そ5000年ほど前に、ナルメル(メナス)王と呼ばれる権力者によって統一されたのがエジプト初期王朝時代の始まりとされている。その後、凡そ500年後の古王国時代の第三王朝期(前2686−2613年)後半からピラミッドの建造が始まったことになっている。
ところで、古代エジプトの歴史上の年代、例えば、ナルメル王の治世が紀元前3100年頃とか、クフ王のピラミッドが建造された年代が紀元前2600年頃とされているのは、古代の石碑やパピルスに残された確かな記録から確定されたことと思われがちであるが、実はそんなに単純明快なものではないのである。。
それでは、現代使われている古代エジプトの年譜は、何を根拠にして決められたものなのかというと、先ず第一の拠り所としているのが、紀元前3世紀頃のエジプト人の神官マネトーが書き残した『エジプト史』とか、第五王朝期の黒色閃緑岩でできた「パレルモ石」、また、トリノの博物館で発見された「トリノ・パピルス」等に記された歴代の王名表である。
ところが、厄介なことに各資料に記された内容は、歴代の王名をはじめ、王の数、治世の期間などがまちまちで、同一の王なのか別人なのかの判断が困難なものも多く、どの資料も重要な指標を決定するには、はなはだ信憑性に欠けている。
そのよい例が、紀元前十二世紀に、ラムセス二世が第四王子に命じて調べさせた資料である。それは長い間、エジプトの歴史のまとめに大きく貢献してきていた資料の一つであったが、ツタンカーメン王の墓が発掘された時、その
名が王名表に欠けていたことで、資料の信憑性を大いに失墜させるところと相成ったのである。
また一方、これらの資料から得られる情報の多くは、王たちの治世の相対的な年代を示しているだけで、歴代の各王の治世が紀元前何年であったといった絶対年代を確定する上では、ほとんど役に立たないのである。
そこで、考古学者達が絶対年数を決めるための決め手として使われているのが、星による年代測定法である。その一つに、シリウス星のヘリアカル・ライジング(日の出直前に空に現れること)を利用する方法がある。しかしながら、この方法には古代エジプトの歴史を通じての一年の実日数が明らかでない限り、年代決定には大きな狂いが生じる可能性があり、それほど信頼のおける年代決定法ではないのである。
現に古代王朝時代に地球の公転速度に変動が起き、一年の実日数に変化が生じたことを伺わせる資料が、エジプトだけでなくメキシコや中国などからも見つかっている。従って365日と四分の1日が古代エジプトにおいて変わらない一年の常数であったことには、大いに疑問があるのである。
そうなってくると、間違いないことと思われていた大ピラミッドの建設時期や建造者についても、疑問を持たざるを得なくなってくる。つまり、古王国時代(前2668−2181年)のクフ、カフラー、メンカウラーのファラオによるピラミッドとスフィンクスの建造については、真の建造者とその時代を新しい角度から検討する余地があることになる。
実際のところ、三大ピラミッドをはじめ主要なピラミッドからは、その建造者を決める直接的な確証は一切発見されていない。そんなはずはないと思われるかもしれないが、これは事実である。これは誰々のピラミッドであると既定の事実であるが如く言われているのは、何百万個の積み石のほんの一つ、二つにに落書きされた石切職人よるものと思われる落書きとか、ピラミッドの周囲にある粗末な墓の中から発見された遺物による間接的な推測に過ぎないのである。
どんな方法で?
そもそも、エジプト学者は、未だに三大ピラミッドの建造方法を明らかに出来ないでいる。古くから、幾通りかの方法が提示されたが、どれ一つとして万人を納得させたものはない。エジプト学者の一致した考えによると、クフ王の大ピラミッドの建造は、幾組にも分かれた男たちが石に結んだ綱を曳きながら、途方もない長い斜道を引っ張り上げ、順次積み上げていったことになっており、この作業に十万人の労働者が二十年間にわたって従事したとされている。
後世のもっと小さいピラミッドを建てる際なら使用石材も遙かに小さくてすんだので、斜道や人力が用いられたかもしれないが、この方法を、大ピラミッドに当てはめると、とんでもない難問が生じることになる。
因みに、230万個とも260万個とも言われている平均重量2.5トンの石を20年間で積み上げたとするならば、一年365日、1日12時間労働にして、1日になんと320個、一時間当たり最低26個のペースで据え付けていかねばならないことになる。それも、146メートル上空でピラミッドの頂点が四面の中心に位置するために、一つ一つ斜面の角度や水平度や方位を完璧に積み上げての話である。
一方、石積みが上に行くに従って、その都度斜道の高さを盛り上げていく必要があり、それらの工事を考慮すると、斜道の工期に二十年間のうちの三分の一を当てざるを得ない。だとすると、時間当たりの積み上げる石の数は更に多くなってくる。ましてや、作業にかかる時期を、ナイルの氾濫期で農業が出来なくなる凡そ3ヶ月に限定すると、まさに驚異的なスピードが要求されることになる。エジプト学者の説明では、とても納得できるものではない。
何の目的で?
ピラミッドが王墓として建てられたことは、そこを訪れる観光客に疑いようのない事実として受け入れられている。しかし中に入った観光客は、そこに埋葬されているはずのミイラも豪華な埋葬品のかけらも一切目にすることは出来ない。そこにあるのは、むき出しの床と壁と、蓋もされずに口を開けている空っぽの石棺だけである。
それでは、それらの品々は墓泥棒によって何処かへ持ち出されてしまったのであろうか。それとも考古学者によって発見された後、何処かの博物館に展示されているのだろうか?
どちらも答えはNOである。いかなる墓泥棒も考古学者も、ピラミッドの外へは一切その種のものは持ち出してはいないからである。
ピラミッドの内部には、もともとミイラも埋葬品も一切存在しなかったのだ。だから、観光客の目に留まらないのは至極当然なことなのである。つまり、ピラミッドは巷間言われるようにファラオの墓として建造されたものではなかったのである。
ミイラや埋葬品が発見されないのは、大ピラミッドに限られたことではない。ギザ台地のカフラー王とメンカウラー王のピラミッドの他、サッカラやメンフィスにあるどのピラミッドからもそれらは一切発見されていないのである。中には,空の石棺すら発見されていないものもある。
更に王墓説を否定する大きな理由がある。王家の谷にある墓に代表されるように、エジプトの歴史を通じてファラオの墓の中は、玄室や通路が色彩豊かなレリーフや碑文で飾られているのが一般的である。ところが、主要なピラミッドの内部には(勿論外も同様であるが)王をたたえる一切のレリーフも、死後の旅立ちに必要な祈りの言葉も記されていない。この点からも王墓説は受け入れ難いのである。
このように見てくると、結局の所、ギザの台地に今なお悠然とそびえ立つ三大ピラミッドについて、四つのクエスチョンマーク(3W1H)、つまり、誰が(Who)?いつ(When)?何の為(What)に?如何なる方法(How)で?に対して,エジプト考古学の正統派学者は,万人を納得させるに十分な答え持ち合わせていないことになる。
大ピラミッドの秘密
地球の大きさと形がピラミッドに投影されている!!
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「ソロンよソロン。エジプト人に比べてギリシャ人は子供である」紀元前6世紀頃、エジプトを訪れた古代ギリシャの哲学者ソロンに向かってエジプトの神官はこう語りかけ、人類最古の知識や史料はエジプトに残されていると語ったという。
ソロンの他にもソクラテスやプラトン、歴史家のヘロドトス、医学者のヒポクラテス、そして数学者のピタゴラスやユーリッドに至るまで、ギリシャ最大の頭脳集団が次々と、知識の源泉を求め、地中海を渡ってエジプトの地を訪れていた。彼らは自分たちより遙かに古い歴史と不思議な知識を持つエジプト人から、天文学や数学を学びとろうと努めていた。
我々現代人にしてみれば、ソロンやプラトンをはじめ、これらの人々は大変な知識人であったと思っている。そのような賢人が教えを請いに、はるばる海を渡って訪ねた当時のエジプトにはどれほどの知識が存在していたのだろうか。
ところが、そのエジプトの神官が言うには、自分たちの持つ知恵や知識は,遙か太古の先王朝から代々受け継がれてきたものだという。ということは、古代エジプトには遙かな過去から、ギリシャの七賢人が求めてやまないほどの知識が、へリオポリスやメンフィスの神官らによって保持されつづけてきたことになる。そうなると、古代エジプト人はピタゴラスの定理や円周率(パイ)、三角関数などの近代数学の知識をひょっとするとすべて知っていたのではなかろうかと、思いたくもなってくる。
しかし、よくよく考えてみれば、古代エジプトが統一される前後の先王朝時代や古王朝時代ということになれば、長く続いた新石器時代も終わり、農業が始まって狩猟生活から農耕生活へと転換がはかられて間もなくである。そんな頃に円周率も三角関数もあろうはずもない。伝説的な存在であるアトランティスからの知識の伝達でもない限り、あり得ない話である。
ところが、事実は小説より奇なりで、大ピラミッドを建造した紀元前2500年頃、古代エジプトには既に円周率や三角関数の知識が存在していただけでなく、神官などの特定知識集団においては、驚くことに地球が球体であることと合わせて、その大きさまで熟知していたようなのである。
先進文明国であったヨーロッパにおいてさえ、天動説を唱えて火あぶりの刑に処されたのは、つい数百年前のことである。それより数千年もの歳月をさかのぼった古代エジプトの時代に、地球が球体であることを知り、その正確なスケールまで知る人々が存在していたとしたら、正に驚天動地である。
実は、この驚天動地の話の存在が既にギリシャ時代に、ピタゴラス学派の人々などの間では密かに囁かれていた。数学と天文学の祖と言われるピタゴラスが、大ピラミッドについて次のように語っている。「大ピラミッドは、古代のさまざまな国で使われていた長さの単位が、エジプトの単位を原型としたことを示しており、大ピラミッドは地球の大きさを記録するために造られたのである」
これを裏付けるように、紀元前2世紀、プトレマイオス王朝時代のエジプトの王に2代にわたって使えたギリシャの文法学者アガタルキデスが、ピラミッドの底辺の長さの和が地球の外周を360度としたときの1分の2分の1とぴったり一致することを耳にしている。現に、後で見るように、底辺の長さの和に2をかけ、60(分)をかけ、360(度)をかけるとその結果は4万キロメートル弱となり、地球の外周に驚くほど近い数字となる。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチも古代エジプトのアレキサンドリアの人々がきわめて正確な子午線の尺度を使っていたことを指摘し、古代エジプトから天文学を学ぶべきだと述べている。
16世紀後半になると、ピタゴラスやダ・ヴィンチの残した言葉に触発された人々が、大ピラミッドの各部の寸法を詳しく調べはじめ、これらのピラミッドの謎を研究するする分野は、当時「ピラミドロジー」とか「ピラミッド数秘学」と呼ばれ、欧米の知識階級の人々の間に次第に関心が広がり始めた。
1638年に、イギリスの数学者で天文学者でもあったジョン・グリーブスは、大ピラミッドに秘められた不思議な知識を明らかにするべく、エジプトへと旅立った。、グリーブスは、ピラミッドの基底部の寸法だけでなく、頂上まで登ってすべての石段の数をかぞえ高さを推定した。ピラミッドの頂上まで登って高さを割り出したのは、おそらく西洋人では彼が最初であったに違いない。さらにグリーブスはアル・マムーンの盗掘抗から大ピラミッドの内部に入り、各部の寸法を測量し、特に王の間の寸法を精密に測った。因みに、大回廊の入り口の近くにある井戸のような縦坑や王の間の通気孔を見つけ世に知らしめたのも、西洋人では彼が最初であった。
この測量の結果がイギリスで発表されると、ピラミドロジスト(ピラミッド学を研究する人々)たちに大反響を巻き起こした。なかでも、万有引力の発見者アイザック・ニュートンはグリーブスの測量数値に多大な関心をよせ、大ピラミッドの建造には、「神聖キュービット」と、「メンフィスキュービット」と呼ばれる2つの単位が使われていることを推論し発表したほどである。
ニュートンが大ピラミッドのの測量結果にこれほどの関心を持ったのは、当時研究していた引力の一般理論を立証するためには、地球の正確な大きさ(円周の長さ)を知る必要があったからであった。しかしながら、グリーブスの測定値が十分に正確なものでなかった為に、自分の研究に役立つまでの知識は引き出すことは出来なかった。
そのため、万有引力の法則の立証にはは、フランス人の天文学者ジャン・ピカールが正確な緯度の数値を測定するまで待たねばならなかったが、それにしても万有引力の法則が世に出るまでの背景に、こんな裏話があったことを知る人は少ないであろう。
その後、150年ほど時を経て、グリーブスの後を継いだのが、フランス人エドメ・フランソワ・ジョマールであった。彼は1798年のナポレオンのエジプト遠征に同行した175人の学者のうちの一人であった。若干21歳のジョマールは、当時の測地学の最先端の手法を用いて、大ピラミッドの底辺を測り、一辺の長さを230.9メートルとした。次に、1時間ほどかけてピラミッドの頂上まで登って、その高さを144メートルと計算し、そこから三角法を用いて斜面の角度を51度19分14秒と割り出した。
ジョマールの測定した数値は、現在の数値と比較して高さや一辺の長さが少しづつみじかめにでているものの、今日の測定結果にかなり近いものであった。彼はこの数値をもとに、天文学、地理学に関する高度の知識に基づいた地球の縮図が、大ピラミッドの辺心距離(頂点から底辺の中央までの長さ)などに現れていると発表した。
ナポレオンの遠征中のいま一つの成果は、有名なロゼッタ・ストーンの発見であった。ナポレオン遠征隊の工兵士官だったプシャールは、ナイル河口の町ラシード(英国名ロゼッタ)の近くで要塞の建設に従事中、偶然、黒色玄武岩でできた一枚の石版を見つけた。熱さ27センチの石版は長さが1メートル幅が73センチほどありそこには、三種類の文字が三段になって刻まれていた。最上段は古代エジプト語のヒエログリフ(聖刻文字)で、二段目が紀元前7世紀頃から使われ出したデモティック(民衆文字)、ともにエジプト語で三段目がギリシャ語であった。
ギリシャ語から、この石碑がプトレマイオス朝の紀元前196年に発令された布告(宣言文)であることがわかったが、ヒエログリフの解読は容易なことではなかった。というのは、ヒエログリフは紀元前7世紀頃に簡略化したデモティック文字が登場すると、次第に使われることが少なくなり、その使用者は神官などの特定頭脳集団に限られていったからである。
その後、王朝滅亡とともに神官たちが消えていった4世紀の終わり頃には、ヒエログリフは全く使われることがなくなっており、ロゼッタストーンが発見された18世紀末には、ヒエログリフは誰一人として読むことが出来なくなってから千数百年もたっていたのである。
語学の才能に恵まれ、子供の頃からヒエログリフの謎を解くのが夢であったフランス人ジャン・フランソワ・シャンポリオンが、この難解な解読作業に取り組むことになった。まず彼は、三種類の文字で書かれている内容は、同一のものであろうという推定した。その後研究を進めていくうちに、ナイル川上流のフィラエ島で発見されたオベリスクの碑文の中に、同じ文字「オベリスク」と「プトレマイオス」などがあることに着目し、比較しながら解読作業を進めていった。
そして、1822年、発見から20数年の歳月を経てようやく解読に成功したのであった。そのとき既にロゼッタ・ストーンはフランス軍の敗戦によりイギリスに戦勝品として持ち去られていたが(今も大英博物館に展示されている)、フランス人はシャンポリオンの解読成功のニュースによって溜飲を下げることが出来た。
シャンポリオンによるヒエログリフの解読は、古代エジプトの歴史の解明に画期的な役割を果たすこととなり、その後カルナックやルクソールの神殿の壁や円柱に刻み込まれたヒエログリフは次々と解き明かされ、古代エジプトの歴史は次第にその全貌を明らかにしていくことになった。
一方、エジプト遠征に同行した学術調査団が、帰国後その研究成果をまとめた大著「エジプト誌」の発刊は、ヒエログリフの解読と併せて古代エジプトの研究を急テンポで進める大きなインパクトとなり、欧米の知識階級のエジプト詣でを促進するところとなった。
ところで、先のジョマールの主張は、その後1880年代にフリンダース・ピートリー等によって大ピラミッドが精密に計測され直されると、その多くが否定されてしまうところとなった。というのは、ピートリーらは大ピラミッドの底辺の長さをジョマールの値より6メートルほど長い236.3メートル、傾斜角を30分大きい51度50分に修正したため、必然的に高さも辺心距離も変わり、ジョマールの説は瓦解せざるを得なくなってしまったからであった。
このことは、単にジョマールの権威の失墜に留まらず、ピラミドロジーそのもののイメージダウンとなり、ピラミドロジーなど非科学的な妄想以外の何物でもないというレッテルが貼られるところとなってしまった。(ただ実際は、ピートリーの測定値のうち、底辺の長さの測定値に関しては、むしろグリーブスの数値の方が、現在認められている数値230.25メートルにずっと近かったことが後に判明している)
ところが、ピラミッド・ミステリーは最後の大どんでん返しがまっていたのである。ピートリーらによる測量結果にうち沈んでいたピラミドロジーたちが、一気に息を吹き返す転機が到来したのである。逆転劇の決め手は、1925年に行ったイギリス人測量士J・H・コウルによる大ピラミッドの新たな測量結果であった。
代々の測量結果がまちまちであるのは、測量技術の問題もさることながら、大ピラミッドの基底部に積もった瓦礫山の撤去が十分になされぬままに、測量が行われたことが要因であったように思われる。
14世紀はじめに、エジプトを襲った大きな地震で崩壊した宮殿や回教寺院を再建するために、アラブ人によって、大ピラミッドの表層石材である化粧板が根こそぎ剥ぎ取られてしまった。その際に化粧板と一緒に崩れ落ちた石灰岩が大ピラミッド周辺に15メートルを越す瓦礫の山となって積もっていたのである。
どうやら、これらの瓦礫が完全に取り除かれて後の、コウルの測量によって、はじめて大ピラミッドの寸法と方位の正確な測量が可能となったようである。その後コウルの測定値を大きく修正する測量結果が発表されていないところを見ると、コウルの数値は現在一番信用できる数値と考えて良さそうである。
このような経緯を経て、大ピラミッドの各部の正確な測定値が明らかになってくる一方、地球そのもののスケールについても、1970年代以降打ち上げられた人工衛星による宇宙からの測量によって、我々は精密な測定値を知ることができるようになってきた。1983年にドイツのハンブルグで行われた国際測地学協会(IAG)における改定値が、今日我々が理科年表などによって手に入れられる最新のデーターである。
大ピラミッドと地球自体の最新の数値が出そろった段階で、ようやく古代ギリシャ以来の論議に決着がつけられる環境が整ったわけである。しかし、地球の姿が大ピラミッドの四角錐に投影されていると主張するピラミドロジストたちは、地球の外周が四角錐の4辺の和に現れ、地球の極半径が高さに現れているところまで突き詰めていたものの、あとわずかのところで、ピラミッド・ミステリーの最終章へたどりつけずにいた。
といのは、極半径の縮尺を大ピラミッドのを高さに置き換えるには、高さの数値が50センチ程小さく、また、赤道面の全周を、底辺の4辺の長さの和に換算するには、底辺の一辺の長さが1.7メートル弱短かったからである。それでも、高さ150メートル弱に対する50センチの差や、およそ230メートルある一辺に対するわずか1.7メートルの違いは、共に小数点以下数パーセントの誤差に過ぎない。そう考えれば十分に説明が可能な所までたどり着いたわけであるから、最後の詰めまであと一歩であった。
そこで、ピラミッド・ミステリーの謎解きにシャーロック・ホームス役として登場したのが、考古学者のウイリアム・フィックスであった。大ピラミッドの底辺の和の測定値を調べてみると、確かに、赤道面の全周に比べるとやや短めであったが、地球の両極周りの周長(地球の周りを赤道と直角に測った長さ)にはかなり近いことに気づいたヒックスは、どうやらこの違いは、地球が真の球体でなく、赤道面が少しふくれた偏球体(楕円体)であることに関係しているのではないかと推測した。
そこで彼は、もしも古代エジプト人が地球が偏球体でありことまで熟知しておったとしたら、ふくらみをもった赤道の全周を表すために、底辺の外周よりさらに大きい測定値を、何処かに表示しているはずだと考えて、ピラミッドの4隅の外側にある正方形のソケット(穴)に着目した。
ソケットの存在はピラミッド研究者の間で古くから知られており、多くの学者はそこには石柱が埋め込まれ隅石としての役目を果たしていたと考えていたが、それの真の意味が何であるかは、よくわからぬままであった。フィックスは、ソケットに埋め込まれた隅石こそが、ピラミッドが地球の球体を現す上で赤道面での膨らみを表示することを意図して造られたものではないかと考え、ソケットの周長を算出してみることにした。
幸い、ピラミッド本体の基底部からソケットまでの距離の測定値や、ピートリーがソケットの外側を直接測量した数値が残されていた。そこから導き出された数値は、ピラミッド底辺の4辺の和の長さで不足していた一辺1.7メート弱の長さを完璧に補うものであった。
私も現地で確認したところ、他の三カ所では崩壊がひどく確認できなかったが、北東の角で、石灰岩製の舗床石材で型取られたソケットの跡を確認することが出来た。その時の感想では、それは何らかの重要な意味があって造られたものだという感じを受けた。
さらに後日、大ピラミッドの高さについて考えを巡らせてたフィックスは、問題になっている50センチの高さの違いに、ぴったり符合するものを見つけた。それはピラミッドの基底部をなしている土台であった。ギザ台地の岩盤の上に厚さ50センチ強の石灰岩で正方形の土台(床石)が敷かれ、その上に正四角錐のピラミッド本体が載っている。もし、ピラミッドの製作者が地球の極半径をその高さに現そうとしたら、岩盤面からの高さ、即ち土台を含めた高さをもって表現したに違いないと考えついたのである。
フィックスの考えがこじつけや単なる思いつきでないことは、後日の研究で確かめられた。彼は、ピラミッド・テキストなどの古代の記録書に、ピラミッドを現わすヒエログリフが「土台」と「正四角錐」と「冠石(キャップストーン)」とで現されていることを発見したのであった。
かくして、大ピラミッドの「地球縮尺投影説」に対する十分な証がそろった。
「地球縮尺投影説」を整理してみると、次のようになる。
@ 地球の赤道面の周長は、ピラミッドの「ソケットの外周の和」に投影されている。
A 地球の極半径は、ピラミッドの「土台を含む高さ」に投影されている。
B 地球を真球体と見なしたときの外周(両極周りの外周がこれに当たる)は、ピラミッドの
土台の外周に投影されている。
C 地球の赤道上における緯度の長さは、ピラミッドの底辺の4辺の和に投影されている。
@、A、B、Cの投影は、すべて43、200分の1の縮尺に基づいている。
それでは、フィックスが探し出した真犯人、つまり、地球の形状とその精密な尺度が大ピラミッド上に如何に正確に投影されているかを見てもらうために、各数値を一覧表にまとめてみたので、じっくりご覧頂くことにしよう。
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ピラミッド底辺の周長
=A-B-C-D
=921.00m
A-B=230.25 B-C=230.39
(北面) (東面)
C-D=230.45 D-A=230.36
(南面) (西面)
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ソケットの周長=H−I- J- K
=927.72m
土台の周長=黒枠の外周
=925.56m |
高さ(土台を含む)
=E-F-G
=147.09m
土台の厚さ=53p
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(注1)
底辺の周長の測定値は、北面底辺が石の保存状態が一番よく保ちられており、真っ
直ぐ並んでいたので、J・H・コウルの北辺の測定値230.25mを一辺の長さの基準と
した。
ピラミッドの寸法
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地球の実測値
(縮尺 1/43200 の長さ)
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高さ
(土台を含む)
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147.09 m
(誤差 6 p 0.04%)
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極半径
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6356.752
q(147.15 m)
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ソケットの周長
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927.72 m
誤差 1辺当たり 1.5p
0.01%)
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赤道の全周
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40,074.840
q
(927.66 m)
(赤道上の経度0.5分の長さ)
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土台の周長
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925.56 m
(誤差 一辺当たり 16p0.07%)
|
極周りの全周
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39,956.725q
(924.92 m)
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底辺の周長
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921.00 m
(誤差一辺当たり15p
0.06%)
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赤道上の緯度
0.5分の長さ
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921.60 m
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(注2) ピラミッドの寸法は、J・H・コウルの測定値(「古代人の遺書」より)を採用。ただし、
高さ、土台の周長ではアンドレ・ポシャによる土台の測定値(「ピラミッドの謎は
解けた」より)を参考にしている。
(注3) 地球の実測値は、「理科年表 2000年版」
による。 極周りの全周は、極半径
の2倍に円周率の実用値(22/7)を乗じて算出した理論値である。
ウイリアム・フィックスは、ソケットの周長との比較を「赤道の全周の43200分の1」の代わりに「赤道上の経度の0.5分の距離」にしているが、求めるところが同じであるから、111,319m(赤道上の経度1度の距離)÷60度×0.5分=927.66mで結果は一緒になる。
ここで、緯度と経度の見方を付記しておく。緯度は、赤道から北へあるいは南へどれだけ離れているかを示す数値である。赤道から両極までの緯度は、それぞれ90度ある。北半球での緯度1度は、北極星を仰ぐ角度を地平線から
1度高くするために真北に向かって進まねばならないならない距離と定められている。したがって、同じ1度でも、赤道付近の1度より北極に近い方の1度の緯度の方が少し長くなる。
経度1度分は、赤道に沿った円周の長さの360分の1の距離に相当するので、赤道上の1度が111,319mで一番長く、緯度が増す(赤道から離れる)ごとに、次第に短くなり極点ではゼロになる。緯度、経度ともに1度は60分、1分は60秒であるから、30分といえば0.5度、30秒は0.5分にあたる。
赤道上の緯度1度の長さは、111,592メートル(理科年表2000年版)であるから、1分(60分の1度)1859.866
メートル0.5分は921.60メートルとなる。同様に、赤道上の経度1度は、111,319メートル。従って0.5分は927.66メートルとなる.
ピラミッド建造計画
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先の表は、大ピラミッド上に地球の諸要素がどのように投影されているかを確認し、検証する立場でご覧頂いたわけであるが、ここで一度、発想の転換をはかって、自分たちが最新の科学で知り得た地球の形状とそのスケールを、ギザ台地にモニュメントとして残こうとしたとき、如何なる手法でそれを実現するか、考えてみようと思うのである。そうすることによって、円周率(パイ)や三角関数など幾何学の基本的な知識が、大ピラミッド建造のプロジェクトにどのように取り入れられていることを理解するのに、役に立つと思われるからである。
仮定の話として、現代文明を謳歌している我々の上に、数十年後に一大異変、例えば彗星の衝突なり、地軸の傾斜なり、地核移動なりの地球規模の大激変が発生することが予測され、もはやそれから逃れる術がないとしたなら、かろうじて艱難を生き延びた人々が数千年、数万年の後の遠い未来に新たな文明を再築した時を想定して、来るべき大惨事を乗り越え遠い将来にまで存続しつづける一大モニュメントを造り、そこに我々が地球や宇宙について多くの知識を持っていたことを知ってもらうための刻みを残し、内部の秘密の場所に現代科学の最先端の知識を保管しようとすることになるかもしれない。
そこで、一案として、現代文明が地球についての十分な知識を保持していたことを伝えるために、地球の大きさと形状を正確に投影したモニュメントを建造することが提案され、承認されたとしよう。そのためには、地球の極地半径、赤道の全周、両極周りの全周のデータが基本となることで衆議が一致するであろう。
球体の地球を表現しようとするとき、誰でもが真っ先に考えつくことは、地球を表現する諸要素、極地半径、赤道などの測地寸法を何万分の一かの縮尺を用いて、ミニチュアの地球儀を造るという単純な方法である。しかし、承知の通り球体は安定性が悪い上に、建造するに一番難しい形である。建造上での困難さもさることながら、5千年、1万年先までモニュメントを残そうとするなら、長期的な安定性において、大いに問題があることに気づき、この方法は捨て去ることになるに違いない。
次に、地球をまるごと表現する変わりに、半分に輪切りにして上半分、つまり北半球(南半球でもよい)を現す方法はないだろうかと思案するだろう。地球は北半球と南半球は旨いことに相似形であるから半球体でもその形や大きさは表現できる。しかしこれにも大きな問題があることに気づく。半球体といえども建造方法の困難さに変わりはない。球体の建造物を造ることがどれだけ難しいかは、東京ドームや名古屋ドームが最新の建築技術によって初めて建造が可能になったことを考えたら理解できる。
それならば、半球体を四角錐(ピラミッド形)の形で表現出来ないかと考えてみる。そこに、少しばかり幾何学の知識を持つ者がいたら、正四角錐を使えば、地球の主要素である、極地半径、赤道円周を投影することが出来るかもしれないというだろう。さらに一工夫すれば、地球の赤道面でのふくらみも表現できるかもしれないことに気づくかもしれない。
この方法の長所は、球体に比べて建造が容易だし、それになんといっても安定性が抜群だ。
そこで、取り敢えず正四角錐で北半球を表現する方法を試みてみようということになる。
正四角錐という3次元に行く前に、地球を真球体であると仮定して、平面に円を描いてみる。そしてその半径を極地半径とすると、円周が地球の赤道を表すことが出来るのが分かる。これを3次元の立方体で表すには、極地半径を正四角錐の高さに、赤道の全周を底辺4辺の総和に置き換えればよい。
ここで、円周率(π)の知識(円周(R) =2π×半径(r))、つまり円周の長さはパイ(π)に比例することを、を知る人なら、四角錐の4辺の長さは、高さ(r)の2倍に円周率πを掛けた数字を用いればよいことに気づくに違いない。つまり、正四角錐の高さ(r)を仮に100メートルとすると、底辺4辺の総和(R)は2π×100メートルとなり、一辺の長さは、簡単に総和(R)の4分の1、即ち50πメートルと導かれる。
ここまでくると、 地球の縮尺模型には、正四角錐が最適であることに意見の一致をみるであろう。さらに正四角錐の図面をひく段階で、設計者は底辺から頂上に至る角度を何度にしたらよいかという問題に出くわす。そこで今度は、三角関数の知識が必要になってくる。例のサイン、コサイン、タンジェントというあの三角関数である。底辺と高さの比率が円周率で表されていることを知っている設計者は、その角度が51度51分であることを導き出す。
ここで、正四角錐を造る際の高さ、一辺の長さ、綾面の角度がすべて出そろったことになる。あとは、縮尺を決めて、実物の高さと一辺の長さを決めるだけだ。地球は緯度、経度ともに360度に分割されている。1度をさらに60分割すると1分になる。もし1分の縮図を基準に使用しようとすると、縮尺は、21600(=360×60)分の1となる。
この縮尺を用いると、地球の極地半径は6,356qであるから、正四角錐(ピラミッド)の高さはおよそ300メートルとなる。これでは少し高過ぎはしないかと言う意見が出る。そこで、その半分、つまり0.5分を基準にして43200分の1の縮尺が適当ではないかということになる。その時の、高さはおよそ150メートル、一辺が230メートル、つまり現在ギザ台地に立つ大ピラミッドの姿の再現である。
しかし、これで完全に地球の大きさと形が正確に反映されたわけではない。というのは、地球は実際は真球体ではなく、両極に比べ赤道付近がふくらんだ偏球体である。その為に極半径に2πを掛けた数値は、両極周りの全周には一致するものの、赤道の全周にはやや短すぎる。赤道のふくらみの長さ120キロメートルを正確に投影するためには、底辺の外周より一回り大きな外周が必要になってくる。熟考の末、我々は正四角錐の四隅の外で対角線上の一点に何か印を置くことを考えつく。そこでソケット(穴)をつくってそこに隅石を埋める方法をとることにする。その正確な位置は、43200分の1の縮尺では、四角から35センチ(=120,000m÷43200÷8)ほど外側ということになる。
これで、地球の大きさと扁平球の形までを正確に投影したモニュメントを造る設計図は出来上がったことになる。あとはこの巨大なモニュメントを設計図通り仕上げることが出来るかどうかにかかってくる。
これだけのモニュメントとなると建造費、建築技術、作業従事者の数などを考えれれば国家的プロジェクトとなるに違いない。現代の土木技術、建築技術、測量技術、耐震工学などの最先端技術と知識を総動員しても、その建造には10年単位の年数を要すことになるであろう。
梁も柱もない巨石のみを用いた建造物は世界中のどの建設会社にしても経験のない工事となるであろうから、小規模の試作を何度か繰り返すことが必要になってくるであろう。特に内部に幾つかの空間を造ろうとすると、上からのしかかる数百トン(大ピラミッドは650トン)の重量や将来に予期される巨大地震に耐えるために、かって経験したことのないほどの緻密な設計が求められる。さらにクレーンやトレーラーや削岩機など強力で精緻な土木・建築用の機材、什器がこのプロジェクトのために特注で用意されなければならない。
大ピラミッド並の精度をその方位や長さにおいて実現しようとするなら、石積み一つとっても容易なことではないはずだ。建造にたずさわる人々は、エンパイヤステートビルや東京ドームを造ることの方がどんなに楽な工事であったか思い知ることになるに違いない。
様々な難問題をどうにか解決して、世界的一大プロジェクトが完成したとしよう。純白に磨かれた化粧版で覆われた21世紀の一大モニュメントは朝日に輝き、夕日に映え、月光に浮かび、その姿はその地を訪ねる人々の度肝を抜き、畏敬の目で眺められつづけるに違いない。(ギザの台地にはこのようなピラミッドが三基連なって建ち並んでいたのだから、その壮観さは言語を絶するものであったに違いない))
その後、予期された通りの一大異変が発生し、大方の人類は滅亡し、地上の文化遺産がことごとく消え失せ、奇跡的に難を逃れたわずかばかりの人々も数年後には、かっての人類が経験した原始的生活に戻らざるをえなかったことを想像してみよう。恐ろしい話であるがこのような事態が将来絶対にないとは言い切れないし、実際に、人類が過去に経験していることなのかもしれない。
原始生活に戻った人類は、その後石器や土器の時代を経て、次第に文明を発展させ数千年、あるいは数万年後に、現代の文明のレベルに達したとき、そこに燦然とそそり立つ一大建造物を眺めて、偉大な古代遺跡に畏怖の念
を抱きながらも、何故にこんな巨大なモニュメントを太古の人々は造ったのだろうかと不思議に思うだろう。そしてそこに秘められた秘密と謎を探ろうと様々なことを試みるであろう。
その結果、彼らより数千年、数万年前の太古の時代の人々が既に地球の形状や大きさを正確に把握し、円周率や三角関数などの知識や偉大な建築技術を持った高度な文明を保持していたことを知ることになるであろう 大林組による「クフ王型大ピラミッド建造計画の試み」
今から20数年前に大林組の研究者・技術者チームが現代の土木技術の粋を集めて、大ピラミッドを建造したら、どのような工法で建造することになるのか? その際に必要な機材は? 労働者の数は? 完成までの年数は? 総工費は? などの難問に一つの答えを出している。題して「クフ王型大ピラミッド建設計画の試み」である。
椛蝸ム組の好意により、この計画の資料を入手することが出来たので、ここにその概略を述べさえていただくことにした。石の切り出し方法や運搬方法また石積み技術などにおいて、今日とは雲泥の差がある古代エジプトの建造方法を念頭におきながら、大ピラミッド建造の現代版を眺めてみると、ギザの大ピラミッド建造の真相を知る上での貴重な示唆が得られる。

工事は、採石、検査、運搬、据え付けの4行程に分けられているが、プロジェクト・ティームの計画立案に先立っての条件は次の通りであった。
@ 建設する場所はエジプトのギザ郊外とする。(三大ピラミッドの林立するエリアから数キロ南側)
A 規模はクフ王のものと同型とする。(高さ146.60m基面幅230.42m、傾斜角度51度52分、
石積の段数158段、全体積2,600,000立方メートル)
B 石材は古代人の使ったものと同質のものを同様の採石場から求め、加工精度も同等とする。
C 建設技術は現代の技術を駆使する。
D 主要な工事機械は日本より現地に持ち込む。
E 設計ならびに施工管理は大林組社員が主体となりスタッフの協力を求める。
本体に用いる石材の仕様は本物にできるだけ合わせるために、その大きさは次のように設定している。
括弧内は数量を表している。
最下層の1段目は、1.5m立方体(22,201個)、2段目は1.25m立方体(31、329個)3段目、4段目は1.1m立方体(99,049個)、5段目以降は0.9m立方体(3,030,263個)。また化粧石(表石)の高さは1.5m(53,512個)とし、石積みに合わせて下から設置していく。
本体石や化粧石の石積みについては、特に下層の4段において、カミソリの刃一枚入らぬほどの精密さが求められるため、据え付け工事において特段の注意を払わねばならない点が強調されている。確かに下層の石積み段階における精度は、ピラミッド建造の際の最大の要であることは間違いない。
ピラミッドの石積みは積み木を積むのとはわけが違う。何しろ上層部からのおよそ600トンの巨大な重圧にさらされるつづけることになるわけであるから、不揃いの石を積んでいったのではその重圧にとても耐えられない。
さらに重要な点は、上からの重量が巨大になると、その負荷は垂直だけでなく水平方向にも分散されるため、横への力による崩壊の危機を是が非でも避けなければならない。そのため、底辺近くの石積みは、均一の石を完璧に接合するだけでなく、水平方向の力にも耐えられるような工夫をしなければならないはずである。
また精度という面では、稜線(底辺と頂点を結ぶ線)の角度にも一段の注意を払わなければならない。底辺部で稜線の角度が1度ずれてしまうだけで、頂上では7.5メートルの狂いが生じてしまい正四角錐は歪な四角錐になってしまうからである。プロジェクト・ティームはプロ集団であるから、当然このような点についても十分に留意しているはずである。
本体石は、ギザ付近(2キロメートル)に産出する石灰岩を使用し、最大個数を要するの90センチ立方体の石で1個あたり約2トンの重量を想定している。表面を覆う白色石灰岩の化粧石(表石)は15キロ先のナイル対岸に求めることができたが、玄室(王の間)を形成する花崗岩の巨石は付近のいずこにも探し求められなかったので、遠く1000キロ離れたアスワンダム近辺にまで求めねばならなかった。(古代のおいてもアスワンから切り出している)
本体石の切り出しについては、まず30トン級ブルドーザーで岩山を開削し、円板カッターと油圧ジャンボドリルを用いて,一斑当たり毎日60個を生産する。この石切工事には100班の石切班を設けて、日産6000個の生産能力を維持する。運搬については、1台のトレーラーに10個(20トンー30トン)の本体石を積み、1日2往復する。
1日6000個の運搬に要するトレーラーは300台で予備として30台を保有する。次に化粧石はナイル対岸から、日産100個のペースで台形の石を切り出し、現地の加工工場で仕上げる。表石の仕上げならびに据え付けの精度はピラミッド石積みの定規となるため特に厳密性を要し、表面も水研ぎ程度に仕上げる。この表石の輸送は市内に架かる橋梁を使って陸送とする.
さらにアスワン上流で切り出す花崗岩の巨石(最大のものは、重量490トン、全長13.4メートル)は門型クレーンにより積み込む。これだけの重量物を引き上げるクレーンはグラハム・ハンコックによると世界にたった数台しかないということであるので、機材の調達は大変であろう。ハンコックは次のように述べている。
しかし現代において200トンの石灰岩の切り石を持ち上げることができるクレーンは、ほん
の わずかだ。それは「橋」あるいは「構台」型のものだ。工場内部や工業地帯の港湾で使
われ、ブルドーザーや戦車、鉄製のコンテナなど、巨大な機器や機械類を輸送するのに
使われている。このクレーンは鋼鉄で組み立てられ、巨大な電力モーターで駆動する。
それでも、大半のものは100トン以下しか運べない。
490トンの巨石を吊り上げることのできるクレーンについて,問い合わせしたところ、現存するかどうかは定かでないが、特注することによって手に入れることは十分可能であるとののことであった。しかし、アスワンとギザにおいて490トンの巨石を吊り上げ、吊り降ろす任務は、現代の巨大クレーン操作の専門家にとっても、特殊で過重な負担を強いられる仕事であることには違いようである。ついでにふれておくと、本プロジェクトで採用している機材はその多くが現在一般的の使われているものではなく、本工事用に特注することを前提にしているとのことことであった。
次に、切り出した石の運搬には500トントレーラー1台のほか200トントレーラー5台を用い、1000キロ離れたアスワンより約1ヵ月かけててギザまで運ぶ。これら大型トレーラーは台数に制限があるため、巨石据え付けまでに5往復させ、所定の個数を建設場所に集積させる。
本体の石積みに入る前に、基盤の強度の測定と水平化を図らねばならない。ピラミッド全体の重量はおよそ580万トン(他の説では600万トンから650万トン説がある)と推定されるので、中央部の荷重は、1平方メートル当たり370トンと計算される。
この重量に耐えうる地盤は相当強固のものが必要とされるが、ギザ台地は、現地の地質図から古第3紀の石灰岩が広範囲に分布されており、1平方メートル当たり1000トン以上が期待できるので建設には問題ないことがわかった。一辺が230メートルにも及ぶ広大な基礎地盤の水平化については、ブルトーザー及びグレーダーで切削し、レーザー光線により標定して水平面を仕上げる。この仕上げ面に50センチの高さの礎石を敷き詰め土台とする。
いよいよ本体石の積み上げが始まる。立案計画では、石積みの行程を高さ60メートルまで、60メートルから80メートルまで、80メートルから138メートルまで、最頂部までの4段階に分けて説明している。


図の説明
(下段右) 斜路を造りながら運搬トレーラーにより石積み面へ直接乗り入れ
(上段左) 斜路上端までトレーラーで運搬し、クレーンにより周辺から順次積み上げる
(上段左) リフトアップ方式により運搬トレーラーごとエレベーターで石積み面まで搬入
(下段左) ヘリコプターによる最頂部へのピストン輸送とクラウン石の据え付け
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@ 基礎地盤から高さ60メートルまで
この高さまでは、斜路を造りながら運搬トレーラーで石積み面に直接運び上げる。斜路の幅員は幅40メートルで、石積みの進捗状況に合わせて盛り上げて舗装される。60メートルまでの施工対象量は全体の80 %に及び、約2年間を要する。
最も重要な点は盛土工事と歩調をそろえるかたわ日産6000個の石を完全に据え付けるため、100台の据え付け油圧クレーンが同一施工テンポを維持し、つねに施工平面が同じ段上、同じ平面で行われなければならないことである。また、通路、大回廊、玄室の巨石等の作業も並行して行われるため、この作業との調整も重要な点である。
A 高さ60メートルから80メートルまでの石積み
作業位置が高くなるにつれて作業面積が縮小してくるため、工事の方法も途中から切り替えねばならい。斜道は60メートルで固定され、そこから上80メートルまではクレーンで持ち上げていく。60メートルから80メートルの間では約10 %(33万個)の石を積む。
ここでの積み上げは、ピラミッドの三辺と中央部を先行して行うが積み上げた谷間には当初100台あったクレーンが逐次減少し、一日当たりの積み上げ個数も最大一日6000個から、中間時に至り一旦2000個まで低下する。最終段階では斜路の上端正面に配置された7台のクレーンで石積みするため1日400個にまで減少する。この漸減施工を工程的にみると150日を要する。
C 高80メートルから138メートルまでの石積み。
80メートルから138メートルまでには24万個の石を積む。量にして全体の7 %、高さにして残り43%である。コストと時間が飛躍的に増大するのはここからである。ここからはリストアップ方式と呼ばれる工法でトレーラーごとエレベーターで据え付け面まで引き上げる。クレーンによる作業現場が上昇するにつれて石積み面積が漸減するため、エレベーターは石積み面が10メートル上昇するごとに一台ずつ減少させ、当初6台のエレベーターは最終段階では2台にまで絞らねばならなくなってくる。高さ100メートルにおける作業面積は一辺70メートルとなり、配するクレーンの台数も作業効率から25台に減少することになる。
D 最頂部147メートルまで
最頂部までの残り10段は0.04%に相当する1300個の石を積み上げることとなり、作業面積も1辺13メートル以下に狭まるため、クレーン車の稼動できるスペースの確保が不可能となる。そこでここからの石の引き上げはヘリコプターによる運搬となる。2台の大型機により、1時間2往復し90日かかって1300個を運ぶ。
この段階ではエレベーターの解体や、斜路の撤去が同時に進められる。本体に付属していた運搬手段は逐次除かれ、表面の清掃がなされ、いよいよ仕上げの段階に入る。最頂部には一辺が3.5メーターで高さ2.2メートル、約20トンのクラウン(キャップストーン:冠石)を積む。20トンもの石を運ぶことが出来るヘリコプターは民間にはないので、最後の1個はエジプト空軍に依頼して、軍用機をチャーターする。
ここまでは、工事の主たる部分であるが、そのほかに、重要な用件として、労働者の生活環境の整備の問題がある。この工事計画ではピーク時において3500人の労働者を想定しているが、それだけでも家族を含めるとおよそ1万人の居住区が必要になり、周囲には学校をはじめ多くの施設とそれに伴うインフラの整備が必要になってくる。
締めて工期は5年、工事費は、1978年当時で1250億円になる。これは現代の物価や諸事情を考慮すると、と数千億円になるがことが推測される、更なる完成度を要求されると1兆円を超えることになるかもしれない。
概略をまとめてみると、こんなところであるが、工期について付記すると、この工事には「地下の間」とそこに至るおよそ100メートルの「下降通路」の建造という相当に手間がかかる作業が入っていないように思われる。本物ピラミッドのように堅い岩盤をほとんど誤差無しの直線で掘り下げる作業は現代でもそうたやすい工事ではないはずである。
さらに忘れてはならない点は、当建造計画は運搬と積み上げ作業において、水平移動と垂直移動を同時に行う点や、作業の流れの動線を変えない点など7項目の基本原則に則り、最大の効率化を図っていることである。
したがって、数多くの作業現場を抱える本工事において、いずれかの現場で重要なトラブルが発生した場合には、一連の作業がすべてストップしてしまい、施工全体に長期にわたる遅れが生じることは避けられないであろう。
そもそも工事期間の5年間というのは、前提条件としてはじめから決定されているもので、各工事の進捗計画からはじき出されたものではない。石の切り出し工事にしろ、石積みの工事にしろそれらの工事の進捗ベースは基本条件の5年工期に合わせて設計されている。そのため、各工事の進捗ぺースが相当ハイスピードになっているように思える点が散見される。
上図説明 (上) 円板カッターと油圧ジャンボドリルによる本体石の切り出し現場
(中) 大型クレーンを用いた本体石の積みおろし
(下) 500トントレーラーによる玄室巨石の運搬
(右下) 垂直器と水平器とノミ |
建設作業にはずぶの素人である私は、この作業についてはコメントする立場にないが、巨大建造物にしては驚くほどの精巧な造りを実感した者の感覚から言わせていただくなら、高さ60メートルまでの石積み工事を一例にとっても、そのスピードが一日6000個というペースはあまりにハイペースに思えてならない。
いくら大型トレーラーと巨大なクレーンを駆逐しての工事とはいえ、東西南北の基準方位や稜線角度をほとんど誤差なく積み上げていく作業に加え、驚異的な精度が求められる化粧石の設置までを併せて考えると、こんなにハイペースで進むことができるものかと疑問に思う。特に、最初の4段目までの石積みは、接合面での精度をおろそかにすると先述したように横ずれによる崩壊の危険性もあり得るだけになおさらその感が強い。
日糧6000個という数字は8時間の想定労働時間で1時間に750個のペースとなり、100台の油圧クレーンが1台当たり8個弱の割合で間断なく据え付け作業を完遂していかなければならないことになる。このハイペースをスケジュール通りに維持するのは目も眩むような仕事に思える。
現代の建築技術は神業のようなことが必ずしも可能だというわけではない。我が国の最大の技術力を結集した青函トンネル工事においてさえ、北海道口と本州口から掘り進んだ出会い面においては、数十センチの誤差が生じているのである。1ミリの誤差も200個の石の集積では2メートリルの誤差となり、稜線角度1度の違いは頂点を7メートルも移動させてしまい四角錐は歪になってしまうのである。
それにしても、235台の巨大な大口径切断機と37台の油圧ドリル、500トン級を含む345台のトレーラートラック、165台のトラッククレーン、25台のブルトーザーと3台の大型のモータグレー
ダー、6基のエレベーター、数台の民間・軍事用ヘリコプターなど現代の最先端の機械・什器を総動員し最高の効率化を前提にしても、5年間の工期が必要だというのには驚かされる。
だとすると、、ハンマーや木槌で一つ一つの石を切り出し、磨き石で磨き上げ、帆船に乗せてナイルを下って、河岸からは木のソリで運搬し、木製の起重機と人力で石積みするしか手段がなかった古代エジプト時代に、定説とされている20年というわずかな年数で、あの大ピラミッドがどうやって建造できたというのだろうか?工期20年説には疑問を持たざるを得ない。
そもそもエジプト学者が説く20年説の根拠は、紀元前5世紀にエジプトの地を訪れたギリシャの旅行家ヘロドトスノの記述をもとにしたものであり、さしたる根拠があってのことではない。イギリス人のメンデルスゾーン博士が唱えたナイルの氾濫期における農業従事者の雇用促進のための国家プロジェクト説が、最近有力になりつつあるようであるが(NHKテレビが2000年の7,8月に放映した「四大文明」ではこの説を有力視している)、この説を前提にするとなると、工事期間は氾濫期の年間4ヶ月に限定され、工期は3−4倍に ソリとテコで石を運ぶ
延長されることになってくる。これでは20年説は完全に瓦解してしまうことになる。
このように、大林組プロジェクトチームが採用した工法や機械・什器と、古代エジプト時代のそれとの差異を詳細に比較してみると、大ピラミッドの建造期間については定説より遙かに長い年月がはじき出され、短く見積もっても50年ー60年という年数が導き出される。それどころか、先述した地下室や下降通路の工事をはじめ、複合体としての葬祭殿や参道などの工事を含めると、工期はさらに延長され定説の年数20年は大幅な修正が必要になってくる。
プロジェクトチームの建造計画の最大の功績は、各種の工法のなかで最適な方法とみなされてきた「斜道方式」の 致命的な欠陥を明らかにした点である。女王の間や王の間それに大回廊に使われている490トンの花崗岩をはじめとする巨石を地上50メートル以上の高さにまで運び上げるのには、盛り土による斜道方式でない限り無理なのである。しかしながらこの「斜道方式」では工事が進むにつれ作業場の面積が次第に狭くなるため、最上部10段の1300個の石積み作業にクレーンを使うことができないのである。
そのために、プロジェクトチームはヘリコプターの活用を前提にせざるを得なかったのである。古代の木製起重機は現代のそれに比べて遙かに小さい。そのため作業に必要な空間は狭くてすむので、現代方式よりは、さらに数段階上まで起重機操作は可能であったろう。それでもなお、最後に残った数十個の本体石とクラウン石の石積みについては起重機を使用することが出来なかったことを建造計画は明示している。
水平器とノミ
となると、現代の建築家が最後の手段としてヘリコプターに頼ったように、古代エジプト人たちも、神話や伝承で伝えられている神官の唱える呪文や秘伝の笛の音による巨石浮揚の超能力の助けを借りたとでもいうのであろうかと、思いたくなってくる。
私の幾つかの質問に答えて頂いたプロジェクトにたずさわった方が、最後に言っておられた言葉が非常に印象的であった。
あれだけの精度のものをそのまま再現することとなったら、測量一つとっても、実際には局面補正(地球の局面にあわせた長さの補正)も必要になってくると思います。そこまでしないと数千年の歳月を経た今日まであれだけの巨大な建造物が微動だにせず存在しつづけることは絶対に不可能だからです。これだけの安定度があるといういうことは、それだけ完成度が高いと言うことに他ならないのです。
いずれにしろ、宇宙人や超古代文明による建造説の話は別にしても、設計から本工事、労務管理に至るまでの総合的な土木技術力は、現代の我々が持っているものと同等以上であったことだけは確かでしょう。はっきり言って、現代の技術の粋を結集しても、あれだけ巨大な建造物をあれほどの完成度で造り上げることが出来るかどうかは、100%不可能とは言わないものの、大変困難であると言わざるを得ないことは間違い事実です。
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