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 「ケツァルコアトル」と「ククルカン」

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 神格化したケツァルコアトル

 メキシコ高原のテオティワカンからユカタン半島の チチェンイッツァまで、メソアメリカ一帯のほとんどすべての古代遺跡に登場する「ケツァルコアトル」は、オルメカ、マヤ、アステカ、トルテカ人にとって神であると同時に、遠い昔に実在し、先祖を文明化に導いた偉大な人物として、彼らの伝説や神話に頻繁に登場する。

 メソアメリカの多くの民族に伝わる伝説や神話によると、ケツァルコアトルは、、トウモロコシの栽培をはじめとする生産性の高い農業技術をもたらし、放浪する狩猟の民を定住させ、文字をもたらし、カレンダーを発明し、石積みと建築の技術を教えた偉大な人物とされている。 

 その姿は、ショチカルコの神殿の基壇に刻まれ今もなお鮮明に残っている。また、 チチェンイッツァやテオティワカンのピラミッドにもその頭部像をはっきりと見ることができる。しかしながら、神格化されたその像は、開いた顎や、二股の舌などを持った大蛇の如く描かれており、伝説や神話の伝えるケツァルコアトルの本来の姿からはまったくかけ離れてしまっている。

 そのため、神話や伝説を知らぬ人々が、それらの像を眺めると、ケツァルコアトルはいかにも無慈悲で残虐な神であるかのように見てしまうに違いない。さらに困ったことにメソアメリカ文明特有の「生贄の儀式」がその見方に追い打ちをかけることになる。

 メソアメリカに栄えた多くの文明において、早くから「人身供養」というおぞましい儀式が定着していた。この風習は時代を経るとともに、その度合いを増して、16世紀はじめのアステカ時代における犠牲者は毎年25万人に達したと言われているほどである。

 血を流す儀式の犠牲者の多くは、彼らの守護神「ケツァルコアトル」に捧げられたわけであるから、ケツァルコアトルは一段と無慈悲で残虐な神であるということになってしまう。このように崇拝する対象物やそれを敬う儀式が長い年月を経るうちに、本来の姿からかけ離れたものとなってしまうことは、多くの宗教において見られることであるが、メソアメリカにおいてもそれは例外ではなかった。

 しかし、原初のケツァルコアトルは後世に人身御供の対象とされ神格化された人物とは180度異なる、聡明で慈悲深い人物であったのである。伝説によると、ケツァルコアトルは戦争や生け贄の話を聞くといつも耳をふさいだという。それ故、彼の存在した時代は一切の人身供養は堅く禁じられ、代わりにカタツムリや蝶や、鳥たちが犠牲に供されたことが伝えられている。

 ケツァルコアトルについて、アイリーン・ニコルソンは著書『マヤ・アステカの神話』の中で、次のように述べている。 

ケツァルコアトルは、偉大な法律制定者兼啓蒙家で、暦や「運命の書」の発明家である。彼は、慈悲深い王で、仏陀と同じく生き物を殺生することなど思いも及ばなかった。悪魔どもは、彼に殺戮や人身供犠をやらせようと絶えず説得に努めただが、チマルポポカ絵文書の無名の著者がいうように、「彼はけっして同意することはなかった。なぜなら、彼は隷属民のトルテカ人を愛し、犠牲に供したものはいつもカタツムリ、鳥、蝶だったからである」

 

 ケツァルコアトルは本当に実在したのか

 それでは、メソアメリカ文明の夜明けを前にして未だ原始的な生活を送っていた先住民を文明開化へと導いたケツァルコアトルとは如何なる人物で、本当に実在した人物であったのだろうか。

 ニコルソンはケツァルコアトルの実在性について次のように述べている。

歴史的には、ケツァルコアトルが存在したという事実はない。しかし、神話に即して見るならば、それはいろいろ異なった水準の世界で一連の真理を体現しており、そのこと自体ケツァルコアトルがある時代に偉大な宗教考案者の国に存在したことのじゅうぶんな証明であることことが分かるだろう。
                                     『マヤ・アステカの神話』

 また、マヤ研究の第一人者であるシルバナス・モーリーも、「伝説に登場するマヤの神ククルカン(ケツァルコアトルのマヤ版)は、その偉大な行為、街を造り、法律を定め、暦について教えた事柄や、その生涯があまりにも人間的であったことからして歴史上実在した人物であるに違いない、そしてこの人物の業績は、死んだ後も長く語り継がれ、最終的には神格化されたのであろう」と、述べている。

 ケツァルコアトル(ククルカン)は、多くの神話や伝説の中で些細な表現は異なるものの、大局的には、非常に似通った人物として登場している。

ケツァルコアトルの目に見える部分の描写は、細部まで記録されている。彼は黒髪とする記述が少なくとも一つあるけれど、彼は、背が高く、頑丈で、眉毛が太く。大きな目と美しい口ひげをもっていたと言われる。彼は円錐形のオセロットの帽子をかぶっていた。顔は煤で汚れ、貝殻のネックレスをつけ、背にケツァル鳥を止まらせていた。上着は木綿製で、足首に輪とガラガラをつけ、泡のサンダルを履いていた。                  『マヤ・アステカの神話』

 また、ケツァルコアトルは一人ではなく、家族や何人かの仲間を引き連れていたことが、多くの伝説や伝承に残されている。

ククルカンは19人の仲間を連れていた。そのうち二人は魚の神で、二人は農業の神で二人は雷の神だった。・・・・・彼らはユカタンに10年間滞在した。ククルカンは画期的な法律を制定し、太陽の昇る方向に船で去って行った・・・・

太古にメキシコに来た人は20名だったという。その首領はククルカンと呼ばれ・・・・彼らは流れるロープをまとい、サンダルをはき、長いあご髭をもち、頭は坊主だった・・・・ククルカンは人々に平和を説いた。また多くの重要な建築物を建てた・・・・

その身のこなしは洗練されており、良い服を着ていた。黒いローブは前が開き、帽子はかぶらず、服の首のところは深くカットされていた。袖は短く肘まで達していなかった・・・・・ケツァルコアトルの弟子たちは偉大な知識を持ち、あらゆる仕事において優れた技術をもっていた。
                                               『神々の指紋』

 後世には神格化されてしまったとはいえ、ケツァルコアトルの行った事柄や、その容姿が、着るものから履き物に至るまでこれだけ具体的に語り伝えられ、伝えられる時代と民族に違いがあるのにも関わらず,大局的に類似している点を考えると、ニコルソンが述べているように、ケツァルコアトルが実在したことは疑う余地がないように思われる。

 それでは、ケツァルコアトルがメキシコ地方に現れ、そこで先住民の教化につとめた時代は一体いつ頃であったのであろうか?ニコルソンは、その時代を推測して『マヤ・アステカの神話』のなかで次のように述べている。
歴史上ケツァルコアトルが一人以上いたことは、まず間違いない。・・・・メキシコに住んで研究を続けているフランスの考古学者ローレット・セジュルネは、ケツァルコアトルはキりストとほぼ同時代に生きていた一人の王だとしている。トウモロコシは人間にとって優良な主食だということを発見したのが、もし彼だとしたら、彼はは確かにもっと早い時期に生きていたのでなければならない。炭素14による年代測定によれば、トウモロコシは中部アメリカでは八千ないし九千年以前に栽培されていた。しかし、そんなことはあり得ないと思うが八千年前だとする者もあり、(考古学者の唱える)年代は暫定的なものである。

 こうしてみてくると、既に読者にはお気づきのことと思われるが、ケツァルコアトルは、ペルー探索で登場した「ビラコチャ」に驚くほどよく似ている。両者の姿形から人柄、為した業績はまさに瓜二つである。また彼と仲間の持っていた農業技術から医薬、天文、石積みに至るまでの特別なの技術も同様である。

 アンデスやメソアメリカの人々が語り伝える伝説や神話を素直に受け止めるなら、遠い過去にアンデス文明を発展させたビラコチャとその仲間の一行は、蛇の筏に乗ってペルーから「奇跡のように」立ち去った後、メキシコ湾岸に現れ、コアツェコアルコス川沿いの「蛇の聖地」ベラクルスに上陸しオルメカ、マヤ文明の発展に手を貸したものと思われる。

 ケツァルコアトルの名前の由来

 ケツァルコアトルの名前の由来について調べてみると、「ケツァル」は、チアパスとグアテマラの高原地帯に生息する緑の羽をもった鳥で、木の梢に住み、めったに人目に触れず、前二趾だけでほとんど鉤爪をもたないことによって他の烏と識別される珍しい鳥の名前である。また、「コアトル」は、蛇を意味するナワ語であるが、マヤ語の「蛇」を意味するコと、「水」を意味するナワ語のアトルとの、合成語である。

 ということは、ケツァルコアトルとは、「鳥の羽を持った水蛇」という意味になる。それではどこからこんな奇妙なな名前が生まれたのかというと、実は、ケツァルコアトルと仲間の一行がメキシコ湾に現れた時に乗っていた船の姿からきているのではないかと思われる。

 メキシコ先住民族の伝説は、彼らがはじめてケツァルコアトルたちの乗った船を見たときの様子を次のように伝えている。「船の脇には、蛇の皮の模様があった」。つまり、「コアトル」と呼ばれる「水の中の蛇」という表現は、船の形そのものが細長く蛇のように見えたということと併せて、船体に蛇の皮に見える縞模様が描かれていたことから来ていると考えられる。

 一方、ペルーを去るビラコチャの一行が乗った船が、「蛇の筏」といわれていることは、その船体にも蛇の皮の模様があったことが想定され、ビラコチャとケツァルコアトルの乗った船が同一のものであることを伺わせる。つまり、、ペルーの地を離れたビラコチャは、その後、メキシコ湾に現れ、後に「蛇の聖地」と呼ばれるベラクルスに上陸したのであろう。

 また、「ケツァル」を意味する「鳥」とか「羽」とかという表現も、単純に鳥とか羽を表しているのではなく、鳥や羽の持つ特性を表現しているのものと考えるのが正しいように思われる。つまり、メキシコの先住民の目から見ると、まるで空を飛ぶように軽やかに進んだのかもしれないし、あるいは本当に鳥のように空を飛ぶことの出来たのかもしれない。 

 つまり、その船は、羽根の付いた水中翼船か水上飛行機のようなものであったのかもしれない。現にケツァルコアトルのマヤ版である「ククルカン」を直訳すると、「翼を持った蛇」となる。

  私の仮説が単なる思いつきでない裏付けとして、ビラコチャたち一行がペルーを離れるときの伝説に奇妙な一節がある。つまり、ペルーの人々が見送る中、「ビラコチャたち一行は、立ったまま海を歩いて大洋の彼方に消えた」、「それは奇跡のようであった」と表現されている。

 それは潜水艦が出航するとき、船員が船上に立って見送られる姿を想い起こさせる。もしもその姿を先住民が眺めたら、「ビラコチャたちは、立ったまま海を歩いて去って行った」と表現するに違いない。

 少なくとも、ケツァルコアトル一行が乗っていた船が筏や丸木船のような原始的なものでないことは、伝説がはっきりと伝えている。特に印象的なメソアメリカの神話には、「その船は櫂をこがなくても走った」という一節がある。

 更に、それを補完する伝説に、彼らがメキシコの地を去るとき、「銀と貝殻で出来た家を焼き、宝物を埋め、輝く鳥に変えられた弟子たちの先導により東の海を航海した」とある(『神々の指紋』)。この一節を読むと、私は、何故か、彼らの船は、何か軽金属のようなもので出来ており、それも水中はおろか、潜水も、飛行さえも可能だった超近代的な乗り物をイメージしてしまう。

 こうしてみてみると、考古学者や歴史学者が説く石器時代に当たる6000年前から1万年前頃の時代に、超先進的な考え方や各分野の専門知識を携えた一段の集団(伝説では10人から20人ぐらいの人々と伝えるケースが多い)が世界の各地を回って、文明とはおよそかけ離れた生活を送っていた人々に対して、人としてのあるべき姿、争いを止めて平和に暮らすことや、一夫一妻制を説きながら、トウモロコシやジャガイモ栽培の高度な農業技術をはじめ、天文学、医学、法律などを教えた姿が見えてくる。

 それらの人々が、アンデスでは「ビラコチャ」であり、メソアメリカでは「ケツァルコアトル」や「ククルカン」であり、またエジプトでは「オシリス」や「イシス」であったのではなかろうか。この考えは、グラハム・ハンコックが彼の一連の著書の中で一貫て説くところであるが、私も今回ペルー、エジプト、そしてメキシコの地を訪ねてみてまったく同様の考え方に立ち至った。


 マヤの数学、暦、天文学

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  マヤの文字と数学

 マヤの碑文のなかに出てくる数字のあらわし方には四通りの方法がある。最も一般的なのは、点と棒による表記で、点は一をあらわし、棒が五をあらわす。この二つの組み合わせによって数を表記していくのである。また、ゼロ(O)は貝の象形文字であらわされる。


 我々が現在用いている数字の単位に一、十、百、千、万、億、兆があるように、マヤにおいても、時間を計算し、記録するための基本的な単位が存在していた。最小単位が「キン」で1日を表す。1キンが20集まって1「ウィナル」(20日)となり、ウィナルが18集まって1「トゥン」(360日、ここで厳密な20進法がくずれる)。

さらにトゥンが20集まって1「カトゥン」、(およそ20年)カトゥンが20集まって1「バクトゥン」(およそ400年)となる。位は20倍ずつ更に上がり、最終単位は「アラウトゥン」と呼ばれ、およそ、6400万年を表している。

 下図は各単位の数値を表す全身像による表記表である。このような絵文字を使うことによって、何千万年、何億年の年数を簡単に表示することが出来る。現実にグアテマラの遺跡からは、、3億年前の日付が表示されている石碑が発見されている。

 このように、マヤ文明においてはゼロの概念と桁(けた)の概念が導入されており、古代のギリシャやローマの数学者たちが、ゼロや桁の概念に思い及ばす、1848年と書くのに、「MDCCCXLV I I I」 と、11文字を使わねばならなかったことを考えると、太古のマヤ人は優れた数学者であったと言えよう。

 マヤの暦(カレンダー)の謎

 優れた表記法を持っていたために、マヤ民族は天文学と暦の分野で驚異的な業績を残した。

 マヤ人は2種類の暦を用いていた。一つは、ハアブ暦と呼ばれるもので、一年を20進法に従って20日からなる月を基準に18ヶ月として、それに不吉な日とされる5日を加えて365日としている。このハアブ暦の起源は、農作業を管理するための農耕暦だったと考えられている。

 不思議なことに、マヤ人は、360日目を1年の終わりの日として、祝い日とする一方、最後の5日間を
「ウアイェブ」(不吉な日)として、この日には、何か悪いことが起きるのではないかと考えて、身体を洗わず,髪をとかさず、厄介者が来ても追い返すことをせず、疲れる肉体労働はまったくしなかった。

 つまり、マヤ人にとって最後の5日は余計な日であったわけで、その日をあまりに忌み嫌うことから推測するに、地球の公転周期に変化が生じて、それまで360日であった一年がある年を境に365日となったのではなかろうかとする考えが浮かぶ。

 それはまた、その時の変化が決して尋常なものではなく、マヤ民族なり、彼らの祖先の源流となる人々とにとって、数千年の後世に潜在意識となってまで残るほどの大災害であったことをも暗示しているように思われる。

 一方、「ツォルキン暦」は13日を1周期とし、それが20周期で260日となって1年の単位となっており、それぞれの日に我が国の大安吉日のように、吉兆が当てられていた。この260日暦は世界に例を見ない希なもので、その使用目的については宗教儀式説をはじめ、さまざまな説が出されているが、いまだ研究者の間で意見の一致は見られていない。

 中村誠一氏は『マヤ文明はなぜ滅んだか?』のなかで、「13と20の組み合わせからなるこの暦は、古代マヤ人の歴史観に深く根ざしたものであったと想定され、現在でもグアテマラ高地の一部の人達の間では、この暦が使用されていると」述べている。

 古代マヤ人はこの二つの循環暦を使うと同時に、二つの暦を組み合わせた暦「カレンダー・ラウンド」をも使っており、両暦の365日と260日の最小公倍数である1万8980日(52年)が東洋の暦の「十干と十二支」の組み合わせの循環年、つまり「還暦」に相当する年で、重要な年とされていた。

 マヤ=宇宙人起源説

 ところで、260日を1年とするは世界的に希な暦であるツォルキン暦に注目したのが、アメリカ人のウムランド兄弟で、彼らは「マヤ≡宇宙人起源説」を提唱している。

私たちが地球の公転周期から暦を作り上げたように、マヤ人はもともと260日の公転周期の惑星かやってきたというのだ。だからマヤ人は故郷の星の周期と地球の周期を組み合わせ、「聖なる52年」の数値を導き出すこともできたと結論づけた。
 
彼らの惑星の気温は高かったため、マヤ人たちは、まず、その当時は温暖だった南極に暮らし、氷河期の到来によってしだいに北へ移動し、最後には地球上でも灼熱の熱帯雨林を選んで住んだというわけだ。
    
つまり彼らの説はモンゴロイドの南進とはまったく反対のルートをたどってマヤ人が移動してきたとしている。なぜマヤ文明だけが熱帯、高温多湿ジャングルに営まれる結果になったかの理由としては、彼らが地球よりも気温の高い惑星から来たため不思議なことではないことをあげている

 
 多くの考古学者は、このような考えに対しては興味本位のものとして、一瞥だにしないが、宇宙人起源説は別にしても、マヤにしろオルメカにしろ彼らの先祖が、必ずしも学者の言うように、間氷河期にベーリング海を渡ってきたモンゴロイドだと決めつけて、他の一切の選択肢を無視する態度には、大いに疑問がある。

 宇宙人起源説に結びつくものではないが、旅行中に現地のガイド、ホセ・市川さんから大変興味ある話を聞いた。それは、メキシコのジャングルの中には、先住民インディヘナたちが「カラス人間」と呼ぶ奇妙な民族がいるというのである。民族といっても、今では数十人ほどにまで減少して滅亡を目の前にしているようであるという。

 彼らのどこが奇妙なのかと言うと、尋常でないところが3点あって、第1点は、彼らには体毛が全くないと言うことである。頭の先から足のつま先まで産毛(うぶげ)一つ生えていないというから、確かに特殊な身体であることは間違いない。第2点は、汗をかく機能がまったく備わっておらず、発汗作用で体温を調整することが出来ないため、日に何度となく一定温度以下の水に水浴しないと生きていけないのだという。

 第3点は、さらに不思議なことに彼らの歯は、すべて先の尖った三角形をしているというのである。何本かの歯の形がそうだというのでなく、奥歯から前歯、上下すべての歯がそうだという。

 地球上には、さまざまな人種が生存しており、未だに人肉を食する人種もいるぐらいであるから、一概に人類といっても一様でないことは確かであるが、発汗機能が全くないとか、歯のすべてが三角形をしているなどということは、生活慣習が違うとかいう問題とは別次元で、まるで人類と系統を異にする異人類のような感じさえ受ける。

 この特殊な民族の源流がいずれにあるのか、民族学的に調べてみたら興味深い結果が明らかになるかもしれない。いずれにしろ、メソアメリカの地には宇宙人起源説を含め、現在の考古学や人類学では到底説明し得ない不思議で、奇妙な事象がたくさん存在することだけは確かである。

 マヤの長期暦と世界の終焉

ところで、マヤの暦についてはさらに不思議な暦が存在する。マヤ人は特徴的な時間の認識法として他に類を見ない長期暦という特殊な暦を使っていた。この暦は、マヤの世界が始まった日を基準点として、その日から経過した時間を表すこと目的に作られたものである。

 マヤの代表的な神話「ポポル・ヴフ」(グアテマラ高地のマヤ、キチェの人々に伝わる創世神話)によると、世界はこれまで3度創造されたが、いずれも滅び、現在は第4の世界にあり、今の世界もはじめから13バクトゥン(1872,000日)、つまり、5129年が経過すると滅亡するという。(既に4つの世界が滅び、現在を第5の世界とする説もある)

 マヤの神話を信じる人にとっては、今日の世界が始まった年が気になるところであるが、ただ、スペイン人が16世紀初頭にマヤを征服したときには、日常生活では、長期暦はすでに使われておらず、神官らの特別な人間だけしか年数を特定することが出来なくなっていた。そのため、自らの手で神官らを殺害してしまったスペイン人には、当時が長期暦で何年に当たるのかを知る手段を失ってしまっていた。

 その後、考古学者がさまざまな方法によってその日を特定することに努めてきたが、今日までの研究では、長期暦の最初の日は、西暦に換算すると、紀元前3114年8月11日とされる説が有力視されている。この日を元に計算すると、マヤ人の信じる第四の世界の終焉は2012年12月23日となる。

 オルメカ、マヤと引き継がれてきた第四世界終焉の神話は、アステカ文明にも受け継がれた。しかし、その時には既に、長期暦の計算方法が失われてしまっていたようで、そのため、アステカの神官たちは、まるで物の怪に憑かれたかのように、年に何十万人もの生け贄を神に捧げることによって、近づきつつある世界の終焉を延ばさんとしたふしがある。

 「ポポル・ヴフ」に語られているのと同様な伝説に、アメリカインディヘナに伝わる「ポピの伝説」があり、その中でも、私たちが生きている世界は、4番目の世界であり、これまでに世界は3度滅びていることが語られている。そして第4の世界もまもなく終焉に近づき、第5の世界へ向かうのだという。

 いずれにしろ、マヤ人が時の経過を知るために傾けた情熱は凄まじいものであった。当時にしては異常に発展していた数学と天文学を駆逐して、丹念に年月の経過を計測し、遠い先祖からの言い伝えを信じて、第4の世界の終わりに備えてきたに違いない。

 数千年にわたる彼らの取り組みを、迷信深い未開人の戯言と片づけてしまうことは簡単であるが、彼らの持っていた暦や天文学の驚異的な精度を知ってしまうと、それが如何に無謀なことであるかが分かる。マヤやオルメカにおける暦や天文学の技術水準が如何に高度のものであったかを知るには、彼らが保持していた太陽暦の1年の正確な日数や金星との会合周期、月が地球を回る周回日数などの計測値を見てみるが一番である。

 驚異的な天文学的知識の謎

 先ず太陽暦の1年を例に取ってみるとしよう。現代の社会では1582年に、時のローマ法王グレコリウス13世の命によって、当時の科学知識を総動員して作った「グレコリオ暦」を今も使っている。グレコリオ暦では地球が太陽を一周する公転周期は、365.2425日とされた。それ以前に使われていた「ユリウス暦」では365.25日であった。

 最新の科学では、太陽暦の1年は正確に365.2422日であることが計測されている。従って、今日の正確な日数とユリウス暦で採用されていた365.25日を比較すると0.0078日の誤差があったことが分かる。グレゴリオ暦で比較してみるとその誤差は0.0003日となって誤差は大幅に縮小されている。

 一方、16世紀より遙かに昔に使われ、その起源は太古の霧に彼方にあるマヤの暦では、地球の公転周期を365.2420日としており、正確な数値との誤差は、0.0002日と、なんとグレコリオ暦より少ない。これはまさに驚異的な計測値と言えよう。

 同じようにマヤ人は月が地球を周回する時間についても正確に知っていた。彼らの測量では29.528395日であったが、最新の計測値では29.530588日となっている。そこでその差を出してみると、わずか0.002193日でその精度の高さにも驚かされる。

 マヤ人は、何故か金星をケツァルコアトルと同一視するけいこうにあった。そのために、金星にはことのほか関心を示しており、地球と金星との会合周期についても、およそ584日と正確な日数を把握していた。会合周期とは、太陽を周回する地球と惑星との関係において、地球から眺めたとき他の惑星が太陽に対して同じ位置に戻るまでの期間を意味する。

 地球が太陽の周りを365日かけて回るように、金星も地球より内側の軌道をを224.7日かけて周回する。二つの惑星は公転周期が異なるため、ある特定な日数が経過した時点で太陽に対する両惑星の位置関係が元に戻ることになる。この時までの日数が地球と金星との会合周期である。

 会合周期を知るのには、地球と金星の正確な公転周期を知っておかねばならない。地球の公転周期についてはほとんど誤差のない日数を計測していたことは先に述べた通りであるが、金星の動きは地球に比べて不規則であるため、相当長期間にわたって観測しつづけ、その平均値を出す必要がある。

 ところが彼らはその点も十分に承知していたようで、長期間にわたる丹念な観測によって金星の公転周期の平均値を把握しており、そこから583.92日という正確な会合周期をを算出していた。さらにツォルキン暦に精緻な修正を加えることによって、ツォルキン暦で計算される金星の会合周期は、6000年でたった1日しか誤差が生じない正確なものになっていた。

 マヤの天文学は、その他にも33年先の日食を正確に予想することが出来たし、金星や火星などの惑星観測も精密で、「ガラガラ蛇」と呼ばれるプレアデス星団や「亀」と呼ばれる双子座などの星座の位置にも精通していた。

 このように眺めてくると、古代マヤ人(それに先立つオルメカ人を含め)の数学、暦、天文の分野における知識や技術水準がいかに高度なものであったかが実感出来る。となると、先の第4の世界の滅亡の神話やその日数計算を未開人の戯れと気楽に片づけてしまうわけにいかないことになってくるのである。

 マヤ人の科学の源流はどこにあったのか

 古代マヤ文明を調べていると、不思議に思うことに出くわす。遺跡から発掘された遺物は数千年前の時代から想像される月並みのものである一方、天文学や暦(特に長期暦)、数学といった分野は、異常なほどに発達しており、当時の文化水準とはあまりにかけ離れすぎていることに驚かされる。

 これらの突出した分野がマヤより古い起源を持つオルメカ文明から引き継いだものかどうかについては、学者によって異論があるが、仮にオルメカ文明がこれらの分野の源流だとしても、その突出した分野が異常である点においては、なんらマヤと変わりはない。

 それは、エジプトにおける三大ピラミッドやペルーにおける巨石の石積みの建造技術が当時の文化水準や技術水準から極端にかけ離れている状況に非常によく似た現象である。エジプト文明に限らず、インカ文明、マヤ文明、オルメカ文明などに共通していることは、原始から高度に発展した文化や社会への移行期間があまりに短すぎることである。

 特にその傾向が、各文明が持っていた専門的分野の驚異的な技術的進化に見ることが出来る。その顕著な例が文字や数字の発明や三大ピラミッドの建造技術、巨石の運搬技術、硬質岩の研磨技術、天体観測の技術、長期暦の作成技術などである。

 通常これらの分野が原始的なレベルから発展するのには、少なくとも千年、あるいは数千年の歳月が必要とされる。ところがエジプトなどの文明においては、数百年それもわずか200年、300年の期間で飛躍的な進歩が起こってしまっており、その発展の土台となるものがものが見つからないのである。

 これを説明する一つの方法は、エジプトをはじめとする各古代文明がそれらより「先行する文明」から多くの知識を学んだと考えることである。つまり、我々の知る過去の文明は、歴史学者がいうように原始から徐々に発展してきたのではなく、先行する文明から高度な知識や技術の一部の遺産を受け継いだと考えることである。

 そう考えると、古代エジプト人がピラミッドの建造方法を先史文明から伝授されたように、マヤ人やオルメカ人も、数学や、カレンダーシステムや天文学についての知識や技術を「有史前文明」の生き残りの人々を通じて、継承したのではないかと思われてくるのである。継承した人物こそ各文明の伝説にしばしば登場するオシリスやビラコチャやケツァルコアトルたちであろう。

 ただし、先行する文明(1万年ほど前の地球規模の大災害によって滅びた文明)からの遺産の引継ぎの経緯が、西洋文明のように、ギリシャからローマ、ローマからイギリス、フランスへと数百年の時代を経て、幅広い階層の人々を対象に引き継がれたのと異なり、滅亡後のある時期に、高位の神官などの特定の人間に短時間で継承されたために、受け継がれたものが特定な分野に偏ってしまったのではないだろうか。

 そう考えれば、メソアメリカにおける考古学の権威J・エリック・トンプソンが持った疑問、「マヤの知識人は天体図を作成できたにもかかわらず、なぜ車輪の原理を発見できなかったのだ?永遠の歳月を目に見える形で表わすという、十分に文明化されてない人々にはできない業績を残しながら、どうして持送リ積みで造られた天井に甘んじ.、一歩前進したアーチ型天井を造らなかったのか? 百万の単位まで計算したのに、なぜ一袋のトウモロコシを計算する方法を知らなかったのか?」に明快な回答が用意できることになるのである。

 当然「先史文明」は、現代の知識や科学技術に匹敵し、分野によってはそれを上まわるものを持っていたということになってくる。それが、ウムランド兄弟が説くような「宇宙的な起源」をもつ文明なのか、古くから言われてきた「アトランティス文明」なのか、それともランド&ローズ・フレマスやグラハム・ハンコックが主張するようにかっては温暖な気候で高度な文化が存在したと考えられる「南極大陸文明」なのか多くの議論があるところである。 

  さらにこの点については、オルメカ文明の謎を探求する段階で検討することにしよう。

「ゲレロとアギラール」の物語

 クリストファー・コロンブスとマヤ人との短い出会い(1502年)の後、征服者エルナン・コルテスがコルメス島に上陸するより8年前の1511年、マヤの地に最初に足を踏み入れたのはジャマイカの沖合で難破したスペイン船の生存者たちであった。

 難破船からボートに乗り移った十数人の乗組員は食べるものもなく、ただ波にまかせて西へ西へと流されていった。漂流すること13日間、仲間の半数が途中で餓死し、コルメス島に面したユカタン半島東岸に漂着したのは、船長バルディビアとゲレロやアギラール達わずかな船員であった。

 命からがらたどり着いた彼らであったが、浜につくと先住民のマヤの一部族に捕らえられてしまった。囚われの身となった彼らは、食事や衣服などをなぜか異様なほどに与えられた。しかし、先住民がけっして彼らを厚遇していたわけでないことは、すぐに分かることになる。彼らは生贄用の犠牲者が自らやってきたことを天に感謝し、神に元気で身なりのいい生贄を捧げるために衣服や十分な食事を与えていただけのことであった。

 しばらくした後彼らが連れて行かれたのは、地面にぽっかりと巨大な口をあけ、満々と水をたたえたセノーテと呼ばれる泉のふちであった。ユカタン半島は石灰岩層で出来ており雨水が溜まりにくく大きな河や湖がない。そのため地下水の湧き出すセノーテは彼らにとって貴重な水の供給源で、また神聖な場所でもあった。

 セノーテの周りでは、マヤ族の酋長をはじめ、神官や、多くの老若男女が集まり、一大神事が行われるのを待っていた。ゲレロとアギラールの目の前で、突然壇上に引き出されたバルディビア船長たちは、神官等によって石刀で胸を切り裂かれ、心臓をもぎ取られて泉に投げ込まれてしまった。彼らはセノーテの神の供え物となったのである。

 次の犠牲者であることを悟ったゲレロとアギラールは、辛くも軟禁状態から逃れてジャングルへと脱走した。そこから、ゲレロとアギラールの数奇な運命が始まることになるのである。二人はその後、別々の部族に捕らえられたものの、奴隷として熱心に働き戦功を重ねた結果、一目置かれる存在となり、ゲレロはマヤの貴族の娘を妻に迎えるまでになっていった。

 それから8年の歳月が流れ、ユカタン半島に、後にアステカ王国を征服することになる男、エルナン、コルテスがやってくることになる。コルテスはコルメス島の近くに「白い肌に長い髭の男」がいるという噂を耳にする。さっそく彼は噂の男に連絡をとった。数日して、彼の前に現れたのは、裸体で全身を赤く塗り、髪を束ねすっかりマヤ人に同化したスペイン人、アギラールであった。

 祖国の人々に再会出来たことを神に感謝しうれし泣きしながら、アギラールがまず最初に尋ねたのは、今日は水曜日か?ということであった。8年間ずっとキリスト教暦で日にちを勘定していたというのだった。その後、アギラールはコルテスの元に仕え、アステカ征服の手助けをすることになるのである。

 もう一方のスペイン人ゲレロはどうなったのか?、スペイン軍へ復帰することを説きにアギラールが彼の元へやって来た時には、ゲレロは耳や鼻、口に飾りを付け、手には刺青までして、アギラール以上にマヤ人になりきってしまっていた。その上、彼にはマヤ人の妻との間に子供もおり、生涯をマヤ人として送ることを心に決めていた。

 結局、アギラールの強い勧めにもかかわらず、ゲレロはコルテスの前に一度も現れることなく、マヤ族の元を離れることもなかった。その後、アギラールはアステカ王国の征服に功績を残し名声をあげる一方、ゲレロはマヤ族の一員としてスペイン軍と最後まで戦い、ついに祖国の兵の銃弾に倒れることとなった。

 数奇ながら対照的な運命をたどることになった二人であったが、その後彼らに対する評価は2分されることとなる。祖国スペインにおいては、マヤから復帰し、最後までキリスト教の教えを守り抜いたとされるアギラールは高く評価される一方、ゲレロは、生贄のような野蛮で残虐な行為を平気でするマヤ人に同化し、最後には母国に立ち向かった悪人として蔑まされることとなった。

 しかし一方、メキシコでの評価は全く逆であった。ゲレロこそ侵略と略奪を繰り返すスペイン人に立ち向かった勇敢な男として英雄視され、今でも多くのメキシコ人から親しみをもって受け入れられている。歴史が下す評価がいかに身勝手であやふやなものであるかを示す、お手本のような二人の男の結末であった。

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