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絵図が長期間保持され続けてきた理由
荒涼とした大平原の広野に、わずか20−30センチの高さに積まれただけの小石の配列による絵図が、なぜ数千年もの長きにわたって保持され続けてきたかというと、その最大の要因は、この地方に長期にわたって雨がほとんど降らなかったことがあげられる。
この辺り一帯は、地表から10センチ程の厚さで酸化した灰色の小石で覆われている。その下は白い石灰質の大地になっているので、石灰質の部分まで灰色の小石を取り除くと、くっきりした白い線の帯が現れてくる。しかも、その石灰質の大地に含まれる豊富な石膏は、夕方に発生する霧や、朝の冷え込みの冷気によって湿り気を帯び、取り除いた小石を石膏細工のように固めて動きにくくしてしまっていた。
とはいえ、強い雨や風が吹き荒れたら、それもそう長くは保たなかったであろうが、この地方は、1万年以上にわたって雨が降らない上に、強い風も吹かない特殊な環境下に置かれていた為に、今日まで多くの地上絵を識別可能な状態で残してきたのである。
1936年6月22日、アメリカの天文学者で古代灌漑施設の専門家であるポール・コソックは古代ペルーの水利事業を研究するために、軽飛行機でナスカの上空を飛んでいる時、人工的に描かれた巨大な地上絵を目の前にして驚嘆の声をあげた。これが「ナスカの地上絵」が世に出るきっかけであった。ところがパイロットは特段驚く様子もなく、こともなげに、「見たいなら他にもたくさんありますよ」といってのけたというのである。というのは、実は現地のパイロットの間では、すでに地上絵の存在は広く知れわたっていたからである。
ただ、ピラミッドなどの古代遺跡と違ってパイロットが酒の肴に話したところで、実際に上空から眺める機会のない一般の人間にとっては、まるで雲をつかむような話で素直に信じることが出来ず、その場限りの話題で終わってしまっていたようである。
如何なる方法で?
それにしても、この地上絵は一体如何なる手段で、そして何のために描かれたのか誰が見ても不思議に思うことだろう。それは、数十メートルから数百メートルの上空からでないと、そこに描かれているものが一体何なのか、まるで見当がつかないからである。地上絵近くの周囲には、全体を見渡すほどの高い山や台地はないのだから、空を飛ぶ術を知らなかったとされる古代の人々は自分達が描いた絵を確認する術がなかったわけである。それなのに、巨大で、確認されているだけでも100個以上はあるといわれている絵図や幾何学図形を、如何なる描写技術を用いて描いたというのであろうか?ナスカの人々は果たして鳥人伝説や,壺や織物に残されている超人図のように鳥さながらに空を飛んだとでも言うのであろうか。
超人説よりましな仮説に「気球説」がある。地上絵を描いた人々がナスカ人であろうとなかろうと、当時、既に気球程度のものは使われていたのでは、という考えに基づく仮説である。これとて、突拍子もない考えのように思われるかも知れないが、まんざら空想の産物というものでもないのである。
1975年11月28日付けの夕刊紙を読んだリマの人々は、センセーショナルなニュースに腰をぬかさんばかりに驚いた。というのは、「古代ナスカ人は、紀元前に大草原の上を既に飛んでいた!」という記事を目にしたからであった。それは、当日の早朝、国際探検家協会のメンバーが、ペルー綿で織られた気球や植物繊維で出来ロープ、ペルー南部ティティカカ湖の葦(あし)で編まれた籠からなる「コンドル1号」気球を500メートル上空まで昇げることが出来たことから書かれた推測記事であった。つまり、記事の言わんとするところは、18分間という短時間ではあったものの、ナスカ人が当時手に入れられたであろう材料を使っての飛行実験の成功は、彼等が気球を使う術を既に持っており、地上絵作製に当たっては、気球に乗った監督官が、上空から鳥瞰しながら作業を指図したというわけである。
しかし、この実験を以て古代ナスカ人が気球を飛ばしていたと決めつけるのはやや早計に過ぎるように思うし、たとえ気球を飛ばすことが出来たとしても、「気球説」は、作業をする人々が地上数百メートルにいる気球の搭乗員と何を以て連絡を取り合ったのかという新たな難問を抱えることになり、まだまだ問題のある仮説であるといわざるを得ない。
素人目に納得感のある説は、イカ博物館館長のアレハンドロ・ペッセア博士が説く仮説であろう。この考え方は、我々が数学の時間に習った、小さい寸法の図形を幾何学的に大きくしていく相似形の要領で、絵図を拡大して描くというものである。この方法によれば、気球などに乗って上空から鳥瞰することなど必要ではなくなってくる。つまり、最初に目に見える範囲で小型の絵図を描き、その絵図上に任意の点(A)を打つ。次にその点と手前に決めた基点(B)とを結ぶ線を糸を使って延長していく。100倍の絵を描こうと思ったら、任意の点をA-B感の距離の100倍の地点に移し替えて行くわけである。後は、任意の点の数を増やしていけば元の絵図の100倍の相似形が描かれることになる。
しかし、この方法も50メートルや60メートルの大きさの物をを描く場合ならいざ知らず、それ以上の大きな絵図の描写方法としては無理があるように思われる。又、山河のある起伏の多い傾斜地を上り下りさせ、数キロにも及ぶ直線や台形を真っ直ぐに引く描写技術となると、この説では全く説明が付かない。それにも増してこの説の致命的な欠陥は、途方もない時間と労力を費やして描いた絵図を誰も一見すら出来ないということである。エジプトの大ピラミッドの建造が労働者にどんな重労働を課したにせよ、次第に出来上がっていくピラミッドの姿を眺めることで、難渋な労働も少しは癒されたのではなかろうか。ところが地上絵がペッセア博士の言うような方法で出来上がった物だとするなら、インディオ達は何を以て長期に渡る労苦の励みにしたというのであろうか?この点を博士はどう説明するのか、機会があったら一度聞いてみたいものである。
何の為に描いたのだろうか?
ポール・コソックの発見以来多くの研究者がその謎解きに取り組んできた
が、未だ万人を得心させるまでの答えは見出されていない。地上絵の研究
で最も有名なのが、ペルーの人々から親しみを込めて「大平原の母」と呼
ばれていた 「マリア・ライヘ」である。ドイツのドレスデン生まれの彼女は、
1946年以来40数 年間にわたって荒涼たるパンパの大地に描かれた
奇妙な地上絵に文字通り生 涯を捧げ、一昨年愛するナスカの地に骨を
埋めた人である。
彼女は、ポール・コソックの天文学的な「暦説」と同様に、幾何学図形は
春・秋分の日の太陽の出入りを示し、絵図の多くは天上の星座を地上に
転写したものだと説いた。そして、絵図や幾何学図形に添えられた線が何本もあるのは,星の運行が地球の「歳差運動」によって、少しづつ移動したため、その変化にあわせて修正が施された為であろうと述べている。作製の動機を探る数多くの仮説の中で、ポール・コソックやマリア・ライヘの暦説が現在最も有力視されているが、ストーンヘンジの研究で知られるジェラルド・ホーキンスはコンピューターを使って調べた結果、多くの線や絵図が天体の方向や動きと必ずしも一致しないとして、この暦説に異を唱えており、又、地元の研究者の多くも暦説には納得していないようである。
何故、これほどまでに巨大な絵図を描いたのか?
人工衛星によって50キロメートルにも及ぶ巨大な図形が発見されたことは、既に述べたが、上空からの高度を上げれば上げるほど直線や台形の幾何学図形の方が動物などの絵図より多く目をひくそうである。ということは、地上数百メートルの比較的低空からの眺めを前提にした絵図とは別に、巨大な幾何学図形の中には、地上から遙かに離れた超高度から識別出来るように描かれた物もあるのではないかと言う推論が働く。
言うまでもないことだが、我々が絵なり図形を描く場合、見てほしい人に見やすい大きさに描くのが常だ。だとすると、地球を周回する人工衛星やスペースシャトルから認識できると言うよりは、その高さからでなければ識別できない図形があるということは、それらの巨大な図形は、そういった高みにいる存在に示す必要があって描かれたのではないかと考えるのは当を得た考えと言えよう。とするなら、それを見せんとした対象が、天上の神々か、太古の時代に交流のあった宇宙人かは別にして、彼等が数百キロないし数千キロの高度から眺めたとき、自分たちの意図するところが伝わり、また、ナスカの地が地球上の何処にあるを識別してもらえるように意図して描かれたもではないかという説を、誇大妄想と無視することは出来ない。
ポール・コソックやマリア・ライへの暦説にも一理あると思うが、冬至、夏至、春・秋分の日を確認するのが目的なら、何も何キロも、又時には何十キロもの巨大な直線を引いたり、幾何学的な図形を作ることは不必要なはずであるり、それこそ労多くして益のないことではなかっただろうか。
描かれた時代はいつか?
更に重要な疑問点は、一体いつの時代に誰の手によって作られたものかという点である。先ず考えられるのは、地上絵とよく似た図形が描かれた土器や織物の製作者とされるナスカ人が、彼等の文明の隆盛期に作ったという説である。現在のところナスカ文明は凡そ紀元前400年から後900年までとされており、その隆盛期は紀元後500年前後ではなかったかというのがある。この年代は、絵図を描いた時に、地上絵の線上に置き忘れられた木の杭の「放射性炭素(C14)測定法」による年代決定ともほぼ一致しており、信頼度が高いとされている。
しかしながら、ナスカ時代の考古学的年代は未だ仮説の域を脱しておらず、現に、地上絵のキャンバス沿いを流れるグランデ川の岸で、同じ放射線炭素(C14)測定結果から推定される、およそ6000年前の円錐形の小屋の集落の発見は、ナスカ文化が遙か以前に遡る可能性を示唆している。また、木の杭の年代測定結果も、それが地上絵製作者によって残された物であることが明確にならない限り、あまり意味がないように思われる。
一つはっきりしていることは、原初の製作者や製作年代は別にして、数百年あるいは数千年の長期にわたって、様々な年代の人々により新たに絵図が追加されたり、修正が加えられてきたことことである。その証の一つとして、幾つかの絵図がそれを横切る幾何学模様によってかき消されている点があげられる。更に、絵図に沿った直線も不必要に見えるほど数があり、研究者によって、それらの線が年代を追って新しく書き加えられた物であることが判明している。確かに航空写真を見ると、時代の新しいものは幅広く描かれて、線が強調されていることが分かる。つまり、ナスカのキャンパスに描かれた数多い絵や文様は、限られた短い期間に描かれた物ではないと言うことである。ただ、「原初」の描き手が誰であり、いつの年代であったかという点については新たな観点から検討を加えねばならない。
多くの疑問を解く「キーワード」
こうして見てくると、ナスカの地上絵に関する様々な謎には決定的な答えが未だ見つかっていないことが分かる。つまり、確証となる手懸かりを求めあぐねているからである。その要因の一つに、16世紀、新世界に入ったスペイン人による、遺跡や遺物の破壊行為があげられる。更に、古代史の研究者にとって致命的なダメージは、年老いた古代インディオの語り部たちの口を閉ざしてしまったことではなかろうか。彼等が語るインディオの伝説や神話の中には、多くの歴史的真実が隠されており、遙かな昔の歴史を探る上では貴重な宝であったからである。
しかし、有り難いことに、スペイン人の全てが歴史の破壊者であったわけではなかった。少数ながら、インディオの歴史の保存に熱心な人々が、抹殺される寸前の貴重な記録をわずかではあるが残しておいてくれたし、遠い先祖からの言い伝えや伝説が、由緒正しい子孫によって細々ながら伝えられてきている。我々は、そこに難問解決への糸口を探さねばならない。
私は、幸運にも、多くの著書や資料を狩猟中に、古代インディオの伝説や神話の中に、ナスカの地上絵の謎を解くキーワードを見出すことが出来た。次に述べるごく短い二つの伝説は地上絵の研究だけでなくインカやマヤやアステカの遺跡の研究にも貴重な示唆を与えるものと確信している。
先ず最初の重要な言い伝えは、インカ帝国の六代目皇帝インカ・ロカの末裔であるエリザベート・デラ・サンタが伝えているものである。
「インカが覇権を握る遙か前、最も古い時代に、ビラコチャと呼ばれるごく少数の人々が
この地にやってきた。インディオたちは彼等の言葉を聞き、彼等に従って、街路のように
広く、両側に低い壁のある道のようなものを造った」
ここで述べられている「街路のように広く、両側に低い壁のある道のようなもの」とは、正に地上絵を描いた線状の帯であり、長方形や台形の幅広の平坦部そのものを指している。そして、それをインディオをして作らせたのは「ビラコチャ」と呼ばれるごく少数のグループであり、その時期は、「最も古い時代」、インカやナスカなどより遙かに古い時代、つまりアンデス山脈文明の原初の時代だと言っている。
次は、ペルーがスペインの植民地下にあった1586年、行政官であったルイス・デ・モンソンが時の為政者(スペイン国王の代理人で最高の権力者)フランシスコ・デ・トレドへの報告の中で述べている言葉である。長年の古代絵の研究家であるシモーヌ・ワイス・バードは、自分の知る限りでは、これはアメリカ大陸発見後、ナスカの大草原の極めて異様な「図形」について語られた唯一希有な証言であると自著『ナスカの地上絵』の中で述べている。
「この重さを失った石をちりばめた砂漠は,たった一人の人の、それも、ただ一回しか
そこを通らなかった人の足跡をいつまでも守っている」
(シモーヌ・ワイスバード著『ナスカの地上絵』より)
「たった一人の人」、「ただ一回しかそこを通らなかった人」とは、「ビラコチャ一行」に他ならぬことは確かであるが、この辺のところを理解してもらうために皆さんには、次の伝説を読んでいただく必要があろう。キシコやペルーなど、中南米からアンデス地域の多くの国々に残されている伝承や伝説は、まるで口裏を合わせたかのように、一様に次のような話を伝えている。
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太古の時代のある日、天から星が落ち、地は裂け、山のような大津波が襲って来て全
てを飲み込んでしまった。この大災害を生き残ったのは、高地に逃れたわずかばかり
の人々だけだった。大地は洪水で水浸しになり、太陽は幾日も顔を出さず暗闇と化し、
それまでの文明はことごとく壊滅してしまった。山間部の土地はやせて農業に適さず、
半分を野生の動植物に頼ったその日暮らしの生活は、まるで人類発生時の生活に戻
ったようなものであった。
そんな時、自分たちの民族とは全く異なる容貌をした不思議な人物が忽然と現れた。
彼の身なりは、あご髭をたくわえ、色白で、かかとまで届くロープををまとい、腰にはベ
ルトをしめていた。その男は時には一人であったり、又時には、数人の部下を連れて
いることもあった。
この人物に与えられた名前は、ペルー一帯では「ビラコチャ」や「ワラコチャ」、メキシコ
では「ケチャルコアトル」や「ククルカン」等とまちまちであったが、名前は異なっても一
様に言えることは、彼等は科学者であり、信じられないような技術を持った建築家であ
り、医者であり、時には教師であった。そして、渓谷の険しい場所に台地や畑を作り、
それらを支える壁を造った。また、作物の作り方を始め、生活様式、灌漑用水や土木
工事の仕方を教え、法律を作り、人としての正しい生き方までも教えた。
大災害後の混乱の淵に沈み、艱難辛苦に耐えていた人々にとって、自分たちをどん底
の状況から救い出し、その後の文明の礎を作ってくれたビラコチャとその仲間達は正に
救世主であり、神のような存在であった。しかし彼等はその地にそう長くは留まることな
く、再来を約して次の地へと去って行った。しかしその後、彼等は二度と戻ることはなか
った。
____________________________
これらの伝承を素直に受け入れるならば、今日の中南米の多くの国々の文明は、有史以前にあった文明の第2ラウンドに過ぎないことが分かる。そして恐らく地球的規模の大災害で壊滅状態になっていた各地の文明が、一人の、時には彼に従う何人かのグループの指導の下に、再スタートを切ったことが推測される。世界中に残された神話や伝説は、アンデスや中南米で起きたことが地域的な災害ではなく、世界的規模の出来事であったことを物語っているが、ここではこれ以上ふれないでおくことにする。
このような状況を頭に入れ、先の二つの伝説を読み返した時、我々が今問題にしている「地上絵」は、ナスカより遙かに古い時代に作られ、その工事を取り仕切ったのがビラコチャであり、ケチャルコアトルであったことが想起される。伝説が伝える超人的な能力や信じられない技術力を持った彼等の指導の下に描かれたのであるならば、不思議で、時には幻想的にさえ思われる「ナスカの地上絵」の謎も解けてくるというものではないか。このことは、これから見ていくペルーやメキシコの遺跡の多くが元を一つにして、ビラコチャとケチャルコアトルの時代にたどり着くことと無縁ではなかろう。
そんな観点から想像を巡らすと、絵図を作った目的も自ずと理解できて来るように思われる。一つは、当時、地球的規模の大災害をもたらした地軸の変化等により、大きく狂ってしまったであろう季節の変化を知る手懸かりとして、ビラコチャ達指導者が、季節毎の太陽や星の入り沈みを容易に観測させようとして、作らせたものたものではなかっただろうかという推測が働く。そのことは、暦としての役割を代々受け継いで来たインディオの子孫達が、その後の天体や地球の動きの変化を受けて、直線や絵図を少しづつ修正し、補足してきたことからも伺える。その点では、ポール・コソックやマリア・ライヘが言っている暦説や絵図を天文学的産物とする考え方は当を得ていることになる。
また一方、巨大な幾何学模様はビラコチャやケチャルコアトルの一行が再びこの地に戻ってくる際の一種の目印でなかったかと思われる。彼等が持っていた技術が現代のそれに匹敵することは、「この知恵のある指導者は海から来たが、その船は櫂を漕がなくても走った。・・・・・・・」という、彼等がメキシコに現れた時の様子や、「彼等の住む家は銀と貝殻で出来たものであった。・・・・・。」というペルーの伝説から十分想像できる。だとすると彼等は再びこの地を訪れる時には、空の上から来ることを念頭に置いていたのではなかろうか。
地上絵がヴィラコーチャ一行が今度は空から戻ってくる為の目印であることをうかがわせる伝承がある。次は、スペインの行政長官、ルイス・デ・モンソンが書き残したインディオの伝承である。
年老いたインディオたちは,彼らの祖先について知っていいると言う。遥か遠い時代,
インカ人が彼らを支配する以前に,彼等がヴィラコーチャと呼ぶ人々がこの地にやって
きた。数は多くはなかったが,彼らの言葉に耳を傾けたインディオたちがあとについて
きていた。インディオたちは彼等が聖者のような人だったに違いないと言う。そして彼ら
の為に今日見られるような道をつくったのだ。
トニー・モリソン著『神々への道』
更に、絵図を今一度見直してみると、別の観点から、地上絵が描かれた時代が一般的に言われているように紀元前後の時代などより、遙かに古い時代であることを裏付ける証が発見される。
地上絵が時代から時代へと長い期間にわたって描かれてきたものだということは先述した通りであるが、天体の運行の観測の為に描かれたと思われる図形やそれに沿った直線が何本も描かれていることは、その間、星や太陽の動きに、目に見える大きな変化が幾度か起こったことを示唆している。この点については,『ナスカの地上絵』の中で、ハンス・ホルク・ヘイマーが次のように述べている点に注意を払う必要があろう。
「この(線と線、台形と線との)重なり合いは、以前の線を消そうと思ってなされたものではなく、地軸の変化のためというようなものではないだろうか。・・・・・・わずかな角度から90度までの修正がなされている」
つまり、インディオは天体移動の記録者でもあったわけで、彼等が観測してきた地軸や天体運行の変化は最大で90度近いものまであったと言うことを示していることになる。
ということは、原初に描かれた時からの経過は、2000−3000年の短い期間より遙かに多くの歳月を経ていることになる。何故なら、直近の2ー3000年間には、このような天体の大きな変化は記録されていないからである。この点は地上絵研究の多くの学者があまり問題視してないが、地上絵の描かれた原初の年代を知る上で非常に大事なことではないかと思われる。
インカの歴史:詳細レポート
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インカ帝国は、一体いつ頃、どのようにして生まれたのだろうか?
インカといえば、誰でもが、遠い時代の歴史を想像しがちである。しかし、正統派の学者が唱える歴史は、そんなに古いものではない、植民地時代の1572年、ペルー副王トレードの命によって、ペドロ・サルミエントという者が書いた『インカ史』によると、初代皇帝マンコ・カパックが、紀元557年にクスコに都を定めた、ということになっている。
しかし、増田義郎氏は、これは伝説の領域に属した話で、そのまま鵜呑みにすることは出来ないとし、実際のところは、10世紀以後のある時期に、クスコのあたりに定住するようになったインカ族が、15世紀の半ばに、突如として大拡張をはじめ、アンデス地方南北にまたがる大帝国を作ったと、言うところが確かなとこだろうと述べている。
黄金の輝きに彩られた絢爛豪華なインカ帝国の歴史は、その華やかさとは裏腹に、発生の起源や原初の様子については、謎を秘めたまま沈黙を守りつづけている。その大きな要因の一つは、インカ人が文字を持たなかったことにある。また、残された遺跡群が、スペイン人によって為された破壊行為のため、あまり多くを語らないことも一因である。
そのため、インカの歴史を探るには、インカの語り部たちが残した数少ない口碑や伝説に、ある程度頼らざるをえないのが実状である。しかしながら、これらも、概要においては大差ないものの、個々の歴史においては隔たりがが多く、取捨選択が難しいところである。
その中で、不思議なことに、「ビラコチャ伝説」だけは、どの伝説も口碑も、ほぼ一貫性をもって語られている。16世紀に残された、伝説や口碑の記録の中で、最も信頼性が高いと言われているのが、インカ皇帝の王女を母に持つガルシラーソの『インカ皇統記』である。それによると、インカ族やインカ文明の始まりは、太古の昔、大洪水で滅んだ文明が、ペルー南端のチチカカ湖地方から再スタートを切った時代に遡るという。
つまり、大洪水後の原始的生活を送っていたインディオが、チチカカ湖から現れた超人「ビラコチャ」によって教化、指導され、彼の持つ不思議な技と力の支援のもとで、新しい文明を築き始めたのが、インカの始まりだというのである。
現に、チチカカ湖南岸のティアワナコ地方には、紀元前以前に、農業
文化が栄え、カラササーヤと呼ばれる神殿を中心にした一大宗教国家
が築かれたことが、考古学的にもはっきりしており、ビラコチャ伝説を裏
付けている。カラササーヤには、今でも、ピラミッドや石像,それに有名
な「太陽の門」と呼ばれる巨大な一枚岩の門が謎を秘めて残っている。
(因みに、ティアワナコ文明は1万数千年前のものだと主張する学者も
いることを付記しておく)
その後、時代は下って、ティアワナコを発したインカ人は、ペルー各地の住民に農業と文化を教え歩き、最後にクスコに定住した後、マンコ・カパック皇帝以降、13代の皇帝によって、我々の知るインカ帝国を築いたというのが、ガルシラーソの伝えるインカの歴史である。
ガルシラーソは、インカ皇帝の血をひく一人として、皇帝一族に連綿と伝わる一族の生い立ちや歴史を正確に聞き出せる立場におったために、彼の語る口碑や神話は信頼性を持つものと言われている。とはいうものの、ガルシラーソが伝える歴史は、あくまで神話に過ぎないといわれれば,その通りであるが、私には、歴史学者が言うように、インカ帝国の歴史を、わずか13代の皇帝でくくってしまうことの方が無謀だと思われる。
なぜなら、インカには巨石を運搬したり、カミソリのは一枚は入らぬほどに精緻に接合する石組みの技術の他に、4000キロにもわたる舗装されたインカ道や縦横無尽に走る灌漑水路などの土木技術,また、脳外科の技術や、デジタル通信の技術など、数百年の歴史ではとうてい説明がつかないさまさまな謎が残されているからである。
すべての神話や口碑が、あやふやなものに過ぎないとは言い切れまい。年代考証がはっきりしない考古学的遺物を基にした仮説より、ときには、歴史の真実を伝えていることもあり得ると、思う。面白いことに、モンテシノスという僧侶が17世紀に書いた『ペルー古代史』には、ガルシラーソの語る歴史を裏付ける、次のような言及が為されている。
それによると、フランシスコ・ピサロによって処刑された、インカ帝国最後の皇帝アタワルパまで、ペルーに君臨した王は百人おったという。さらに、その王の名が記された一覧表は、はじめにビラコチャの名をあげ、最後にマンコ・カパックから始まるインカ皇帝13代の系譜で結んでいる。
増田義郎氏は、インカ以前には、小規模な都市国家や部族国家しかなかったから、百人の王のうち、インカ皇帝を除く、八十数名の王は、ペルー全体の支配者ではなく、インカ以前のいろいろな時代に、各地方を支配した者の名を手当たり次第調べて、それを系譜化したものに過ぎないだろう、と述べているが、私は、ビラコチャ伝説にあるように、チチカカ湖周辺で始まったインカ史の原初からの王名が、そこに記されているのではないかと思っている。
というのは、モンテシノスの述べるとことでは、第64代目の王のとき、内紛か外敵かは言及していないが、チチカカ湖の近くのプカラというところで大きな戦争が起き、時の王は破れ、国全体が破壊され小部族国家に解体してしまったという。そのとき王族の残党と従者が逃げ延びた地がクスコの近くのタンプ・トットという場所になっている。ところが、おもしろいことに、一般的に認められている「インカ帝国13代皇帝説」の最初の皇帝マンコ・カパックの発生地が、このダンプ・トットであった。
とすると、インカ族は、伝説通り、チチカカ湖南岸のティアワナコ地方を源流とし、多くの時代を経た後、戦争によってか、新たな災害の発生によてかは、別にして、何らかの理由で、北上を余儀なくされ、各地を転々とした後、クスコの地に定住したのかもしれない。そうなると、歴代の王の数も、タンプ・トットが述べる百人より多かったことも考えられる。
そうした前提に立つと、ティアワナコ文明の持つ、優れた農業技術や巨石を用いた建造技術とインカとのかかわりの謎も解けてくるし、チチカカ湖周辺に住むアイマラ族とインカ族との言葉の同系列性も理解できるのである。
マチュピチュの遺跡:詳細レポート
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「マチュピチュの遺跡」の3W1Hを検討するに当たって、先ず、インカ帝国末期の失われた都市「ピトコス」(「古ビルカバンバ」とか「幻のビルカバンバ」と呼ぶ人もいる)とマチュピチュとの関わりを見てみよう。
失われた都市「ピトコス」
インカ帝国は1533年最後の皇帝アタワルパがピサロによって処刑された後、スペインの植民地となった。しかし、その後、インカ族は皇帝の血を引く者を何人か皇帝を擁立し、ウルバンバ川の上流「ビルカバンバ」に秘密の都を築城し、スペイン政権に抗戦しつづけた。そこには、クスコから移送した「黄金の太陽像」をはじめ、インカ帝国時代の多くの金銀財宝を保管していたと言われている。
何十年かにわたってつづいた戦闘やゲリラ活動に終止符を打つべく、皇帝トウパック・アマルーは、インカの秘宝を何処かに隠した後、自分に使えた「太陽の処女」とわずかな残留男性だけを砦の都に残し、スペイン人との最後の決戦に挑んだ。
戦いは、スペイン軍の圧倒的な勝利に終わり、皇帝トウパック・アマルーをはじめ、おもだった部将は捕らえられ、クスコの町に連行された。インチキ裁判によって死刑を宣告され、処刑台に登った皇帝は、広場に集まった数万の群衆を前に、アンデスの最後の王者にふさわしい別れの言葉を告げた。その姿にインディオの全群衆のみならず、スペイン人までもが悲しみの叫び声をあげ、多くの涙を流したという。時に1572年9月24日、フランシスコ・ピサロによるアタワルパ皇帝の処刑の日から39年後のことであった。
このようにして、トウパック皇帝の死とともに、インカ帝国の最後の抵抗は終わり、ビルカバンバの奥に作られた「ピトコス」と呼ばれる秘密の都は、「太陽の神殿」や「インカの秘宝」とともに、人々の手の届かぬ彼方に消えてしまったのである。
それから339年後、ハイラム・ビンガムが謎の都市「マチュピチュ」を発見したいきさつは前頁に記した。
ビンカムは勿論のこと、多くの考古学者は、当初、マチュピチュこそ失われた都市「ピトコス」に違いないと考えた。そう考えるのは無理からぬことであった。というのは、秘密の都はビルバンバの奥の高い山中にあるとされており、位置的にも、又規模的にも一致するからであった。
更にそれを裏付けるように、遺跡の地下から墓地が発見され、そこに埋葬されていた人骨173体の内、150体が女性のものであることが判明したのであった。この発見は、これらの人骨は、トウパックが出陣した後に残された「太陽の処女」たちのものではなかったかと推論され「マチュピチュ=ピトコス」説を支えることになった。
しかし、「マチュピチュ=ピトコス」説は、その後の研究によってほぼ完全に否定されており、現在は、マチュピチュのさらに奥地にある「エスピリト・ウパンパ」の遺跡をピトコスとする説が有力のようだ。いずれにしろ、当然あるはずの膨大な黄金は未だどちらかも発見されておらず、謎の都市と失われた黄金は未だ闇の中というところである。
マチュピチュの正体は?
それでは、マチュピチュの正体は何であろうか? この遺跡が、インカ最後のゲリラによって利用され、太陽の神殿としての役目を果たしていたことはあり得ると思うし、150人余の女性の骨は「太陽の処女」たちのものであった可能性が高いように思われる。しかし、原初のマチュピチュの遺跡がインカのゲリラの手で築かれたは、とうてい思われない。スペインとのゲリラ活動が始まってからわずか30年余の年月で、しかも戦闘の合間というごく限られた時間と労働力で、これだけのものが出来上がることは全く無理な話であるからである。
それでは、有力な一説となっている、インカ帝国最大の実力者,第9代皇帝パチャクテイ・ユパンキ建造説はどうであろうか。確かにパチャクティ皇帝は先の頁でも述べたように、名前からして「世界の改革者」と呼ばれるほどに、多くの改革を成し遂げており、領土を広げ、都市を整備し、法律を設定し、まつりごとを新たにするなどの多くの業績を見ると、偉大な皇帝であったことは間違いないが、マチュピチュの建造となると話は別のように思われる。
首都クスコの中心部を取り壊し、その都市構造を一新した皇帝は、その他にも、まつりごとの中心として太陽の神殿を建て、「太陽の処女制度」を制定し、その館も豪華絢爛に仕上げている。それなのに、何で又それらとは別に、しかもウルバンバ渓谷の山奥の地に、改めてこれだけ大規模の都市を建設する必要があったであろうか? パチャクティ皇帝築城説はあり得ないと思う。
「高さ」と「インティ・ファタナ」が解き明かす「マチュピチュ」の秘密
マチュピチュ建造の謎を解く鍵は、2460mという遺跡の高さとそこに残された「インティ・ファタナ」(太陽を留める柱)にあるように思われる。これだけの高地、しかもビルカバンバ川から500mも登ったマチュピチュ峰の頂き近くに、わざわざ都市を建設するには、それ相当の理由がなければならない。巷間言われるように、単に宗教的な意味合いなどではとても理由付けにならない。
何故なら、単なる宗教的な目的のためだけで、あれだけの多くの巨石を、わざわざ500mを越す遙か下の渓谷から運び上げるまでの労をするだろうか、特にこの地が神聖な場所として古くから尊ばれていたとでもいうなら別だが、そのようなことは、どの伝説や口碑でも言われていない。
多くの不便を乗り越えて、この高みに場所を設定しなければならなかった理由は、絶対的にこの高さが必要であったからに他ならない。その必要性とは何か?ここで今一度、ナスカの地上絵で述べた、伝説に言われるところの、ビラコチャの登場の場面を思い出してほしい。アンデス文明の祖とされているビラコチャは、伝説や口碑によると、天変地異によって起こった大洪水の後に現れたのではなかったか。
地上のすべて流してしまうほどの大洪水に遭遇し、生き延びた人々は、みな高所へ高所へと逃げ延びた人々であったことを思い出してほしい。この大洪水の後、彼等のの脳裏にあったものは、水の怖さと、低地に対する不安であったことは間違いない。だとすると、彼等が新たなと都市造りをするとき、先ず、今回の洪水から免れた高さ以上の高地を、選定したであろうことは想像に難くない。
このことは、アンデス文明発祥の地を言われるティアワナコ(救済と指導の人「ビラコチャ」が最初に現れたとされている場所)が、チチカカ湖近くの4000mを越える高所であることとや、世界中の主要な栽培植物の発生源が、すべて地球上で最も高い山脈と相関関係にあることと大いに関係があるように思われる。
私は、ここに、あえて不便きわまりないマチュピチュという高地を、あらたな都市に選定した、大きな理由があるように思うのである。もう一点、この考えを補足することになるが、遺跡が、わずか数百年前のインカ帝国時代のものなどではなく、数千年以前の、地軸の変化を伴ったと思われる地球的規模の大異変後に、建設されたと思われる証がある。
マチュピチュの遺跡の西側サイドで、この遺跡中で一番の高台に、「インティ・ファタナ」と呼ばれる「天体観測」の為の石柱と平岩の土台がある。(写真添付) この「インティ・ファタナ」について、マチュピチュ発見者のビンガムは自著『失われたインカの都市』の中で次のように述べている。「毎年冬至の日にマチュピチュの神官によって、インカの神秘的なひもが大きな石で出来た柱に結びつけられ、太陽が空を行く軌道から外れないようにする儀式が行われる」
因みにインティ・ファタナとは「太陽を留める柱」という意味である。こんな奇妙な儀式が行われた背景にあるものは、かってアンデス一帯の民族を壊滅状態におとしいれた地震と大洪水にあるようである。
大災害時に、「空は落ちた」とか「太陽が何日も昇らなかった」ことが、伝承の中で語られている。このことは、どうやら大洪水の原因が、地軸の傾きによるものであったことが推測されるが、当時に人々とっては、あたかも星々や太陽がいつもの軌道を外れたように思われたのであった。
それ故、大災害から辛うじて生き延びた人々は、太陽が一定の軌道から外れることを極度に恐れるようになり、冬至や夏至、春・秋分などの季節の節目ごとに、精密な天体観測を行うことことで太陽の軌道を確かめることが、欠かせぬ行事となったのであろう。ビンガムが記している「インティ・ファタナの儀式」において、ひもで太陽が軌道から離れるのをつなぎ止めようとしたのは、なんとしても太陽を一定の軌道につなぎ止めておこうとする、一種の脅迫観念的行動の名残であったのだ。
太陽にまつわる多くの不思議な儀式(魔術)はなにもペルーに限られたことではない。ランド&ローズ・フレマスは自著『アトランティスは南極大陸だった』で、多くのアメリカ先住民に伝わる激しい地震の後の大洪水の天災神話ついて述べる中で,それらの儀式の必然性を次のように述べている。
ユート族では、兎神が太陽に向かって魔法の矢を放って粉粉にしてしまい、それが地震を起こし、 洪水が地球を呑み込んでしまう原因になったと伝えている。他の多くの伝承も、何か大きな天変地異が起こる前に、太陽に起こった何らかの変化を示唆している。
太陽が通常の道筋からはずれる。空が落ちてくる。地球は地震に襲われ、引き裂かれる。そしてついに大洪水の大波が地球を呑み込む。このような天変地異を生き延びた者たちは、それがふたたびおきないようにするためにどんなことでもいとわないだろう。彼らは魔術の時代に生きていた。太陽神をなだめ,支配し,その道筋を監視する為に,入念な手段をつくりあげるのは,ごく自然であり,また必要なことでもあったのだ。
イギリス、エイヴベリーの巨石を使ったストーンサークルをはじめ、世界各地に点在する多くのストーンサークルも、皆このようないわれをもっているのかもしれない。
このような観点から、「マチュピチュ」の遺跡を見てみると、大洪水後、原初のアンデス文明の発生時に、安定的な高地を求めて建造された都市の跡かもしれないことが想起されるのである。