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オルメカ文明の謎

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メキシコ湾岸沿いの平野部、ベラクルス州南部からタバスコ州の低湿地にかけての地域で発見された文明の痕跡は、「オルメカ文明」と呼ばれ、現在では、メソアメリカ最古の文明と見なされている。主要な遺跡には、「トレス・サポテス」、「サン・ロレンソ」、「ラ・ベンタ」がある。

 オルメカ文明はサン・ロレンソ遺跡を中心とした時代(紀元前1200−紀元前900年頃)とラ・ベンタ遺跡を中心とした時代(紀元前900−前600年頃)に大きく繁栄し、その影響はメキシコ中央高地から現在のホンジュラスにまで及んだ。しかしどちら遺跡も故意に破壊され、突然滅んでしまったことがわかっているが、その理由については明らかになっていない。

 オルメカ文明の遺跡の発掘は歴史が浅く、わずか60年ほどしか経っていない。アメリカの考古学者マシュー・スターリングによってトレス・サポテスやラ・ベンタが本格的に発掘されたのは、1939年以降のことで、サン・ロレンソの本格的な発掘はさらに遅れ1966年に考古学者マイケル・コウによってなされたばかりである。

 スターリングやコウらによって発掘された文明を我々は「オルメカ文明」と呼んでいるが、この名称は、16世紀にスペイン人によって滅ぼされたアテスカ人が彼らの先立つ文明をオルメカ(「ゴムの木の茂る国」という意味)と呼んでいたのを、考古学者がそのまま踏襲しただけであって、根拠のある名称ではない。したがって我々が「オルメカ人」と呼ぶ人種名もマヤ人やアステカ人のように確かな呼称ではない。

 オルメカ文明が未だ謎に包まれたままで、その実体は明らかになっていないのは、発掘の歴史が浅いからだけではない。メキシコ湾岸は湿度も高く、低湿地帯が多いために、オルメカ人の骨が現在までひとかけらも発見されていないこともその要因の一つとなっている。

 そのため彼らがどんな人種に属するのかも分かっておらず、オルメカの社会組織や信仰、宗教儀式などについても推測の域を出ていない。ただ彼らがマヤ人と同様に暦や天文学などの特別な分野において、当時の時代背景にはおよそそぐわない驚異的な知識を持っていたことだけは確かめられている。

 それは、スターリングがトレス・サポテスで発掘した石版にマヤ遺跡から発見された一番古い年代(紀元後228年)より古い年代(紀元前32年9月3日)を表す、点と線の暦が発見されたからだ。さらに衝撃的であったのはトレス・サポテスはマヤ文明とはまったく異なる文明の遺跡であることが分かったことである。

 スターリングによってオルメカ遺跡が発見されるまでは、考古学者や歴史学者は一様に、マヤ文明こそがメソアメリカ最古の文明であると信じて疑わなかった。そのため、マヤの専門家の間には、トレスサポテス遺跡の時代認定をめぐって大きな論争が起こった。

 しかし、スターリングがトレス・サポテスの発掘をつづけるのと併せて、ラ・ベンタやサン・ロレンソの発掘が進むに連れて、これらの文明がマヤとはまったく異なるもので、マヤよりさらに古い文明であることが次第にはっきりしてきた。その結果、オルメカ文明こそメソアメリカの「母なる文化」であり、数字や暦の発明者もオルメカ文明に帰するところとなっていった。

 このようにして、おぼろげながらその姿が明らかになってきたオルメカ文明であるが、一方で、その遺跡からは様々な奇妙で不思議な遺物が発見されており、新たな謎が生まれるところとなっている。その代表的な遺物が、考古学者が「アンクル・サム」と呼ぶ浮き彫りの人物像と当時の支配者の肖像と思われる「巨石人頭像」である。

 謎の人物、アンクル・サムの正体

 ラ・ベンタ遺跡を発掘中のスターリングは、数十センチメートルほどの高さの石柱が何本か地表面に顔を出しているに注目し、その当たりを掘り起こしてみた。するとそれらの石柱は3メートルもの長さがあり、それぞれが密接して建っていた。さらに掘り進めてみると石柱の数はなんと600本にも及び、それらは遺跡の中央広場を取り囲むように建てられていることが分かった。

 それはまるで何か重要なものを守るために建てられている堅固な防御柵ように思われた。そこでスターリングは石柱で囲まれた中を慎重に発掘してみることにした。するとそのほぼ中央部から高さが4メートル、幅2メートル、厚みが90センチほどもある巨大な石碑が発見された。石碑の表面には、向かい合った二人の人物とその上空に浮かぶ数体の小さな人物像らしきものが浮き彫りにされていた。

 発掘された状況からすると、この巨大な石碑はオルメカの人々にとっては非常に重要な建造物であったことが分かる。おそらくそこにはオルメカ民族の歴史にとって何か重要な人物や事件が記録されていたものと思われる。

 そのために、おそらく異民族の侵入によって石碑が破損されることを避けるだけでなく、そこにはオルメカ人の中でも特定の位の高い人々しか出入りが出来ないように堅固な防御策で固める必要があったのであろう。通常この種のモニュメントには重要な戦いで勝利した王様や戦士の像が描かれているのが普通である。

 ところがオルメカ人にとってかけがえのない記念碑的なこの石碑に描かれていたのは、二人の背の高い人物が対面している場面で、二人とも洗練されたローブに身を包み、つま先が上を向いたきらびやか靴を履いた人物であった。残念なことに一人の人物の顔は故意に削られたと思われる破損のため完全に見えなくなっていたが、もう一方の人物は無傷であった。

描かれた人物は、鈎型の高い鼻を持ち,長い豊かなあご髭をはやした、どう見てもヨーロッパ系の白人としか見られない男の姿であった。これは、スターリングをはじめとする考古学者にとってまさに衝撃的であった。困惑した考古学者たちは、この謎の人物を「アンクル・サム」と命名したものの、彼がいかなる人物で、なぜ石碑に描かれたのか、オルメクといかなる関わりを持っていたのか、到底説明など出来るものではなかった。そしてその状況は今もまったく変わっていない。

 そこで我々は直感に頼って推論するしかない。頭の固い考古学者には受け入れられないに違いないが、固定観念にとらわれずに眺めると、アンクル・サムはオルメカ文明の発展に初期的段階で関わりのあった人物で、おそらく文化水準が未開人並であった先住民インディヘナを文明開化に導いた重要人物であったように考えられる。

 石碑の破損状況が進んでいるようで、私には、もう一人の人物の下半身を判別することが出来なかったが、いわれているようにその人物もアンクル・サムと同様な身なりであったとしたら、二人とも白人ということになり、オルメカ文明を発展に関わったのは複数にグループで、その代表的な人物がそこに描かれたものと思われる。

 そこで思い出されるのが、遠い過去の歴史を伝承するオルメカやマヤの伝説や神話である。そこには、両文明の生みの親であるケツァルコアトル(マヤではビラコチャ)が登場する。伝説によるとケツァルコアトル一行が初めてメキシコに上陸した地が、オルメク文明発祥の地に近いコアツァコアルコスであることや、ケツァルコアトルの人物像が、長いあご髭をはやし、長いロープをまとい、サンダルを履いた白人であったと語り伝えられている

 そうなってくると、アンクル・サムはメソアメリカの伝説に登場するケツァルコアトルであった可能性が非常に強くなってくる。オルメカの伝説はさらに語る。「脇に蛇の皮のような模様があり、櫂を漕がなくても走る船に乗り、「蛇の聖地」コアツァコアルコスに上陸したケツァルコアトルの一行は、およそ10年間その地に留まって、人々に様々なことを教えた」と。

 伝説を素直に受け入れるならば、ケツァルコアトルたち一行は、人々に人として生きる上での最低限のことを教えることから始めねばならなかったようである。それは、火を使って料理する方法であり、家を建てる方法であり、一組の男女が夫と妻として一緒に生活することであり、喧嘩をせずに平和に生きることであった。おそらく、当時のオルメカ人は原始的な生活からまだ十分に抜け切れていない未開人であったのであろう。

 さらに彼らは、この地に適した食料源としてトウモロコシを発見しそれを普及させる一方、石積みと建築の秘技に加え、数学や天文学、長期のカレンダーの原理を教えていった。また人身供養の風習を改めさせ、神への捧げ物を鳥や蝶に変えるように教えた。

 こうしてオルメカ人が生活を安定させ先進文明を築くのに必要なあらゆる技術と文化を伝えて、十数年後に彼らはこの地を去ったのである。

 だとすると、もしも石碑に刻まれた一人の人物が伝説のケツァルコアトルであったとしたら、オルメカ都市遺跡の聖地に建つ石碑が、アンクル・サムとその仲間たちの遺した偉大な業績を後世に伝える記念碑として建てられたことは十分に考えられることである。

 さらにはっきりしていることは、アンクル・サムが実に写実的に描かれていることからして、この石碑に彼とその仲間が浮き彫りされたのは、現実に彼等がまだその地に滞在していた当時か、もしも立ち去った後だとしても、そう遠くない時代であったということである。

 なぜなら、彼が去ってから数百年という後の時代では、先祖から伝えられた人物像のイメージからだけで、これだけ正確に顔形や容姿を描写することは不可能だと思われるからである。したがってアンクル・サムの描かれた石碑がラ・ベンタの遺跡に据えられたのも考古学者がいう年代紀元前6−700年よりはるかに古い可能性が強い。

 謎の人頭像(オルメク・ヘッド)


 さて、もう一方の驚愕的発見物である人頭像も大きな謎を含んだオルメカ文明の遺物である。現在までに、この人頭像はラ・ベンタや、サン・ロレンソ、トレス・サポテスなどオルメカ文明の遺跡から17個発見されているが、その多くがオルメカ時代に造られた墓の中から発掘されたものである。

 どの人頭像も皆一様に、見慣れたメキシコの先住民的顔形からはほど遠い、四角張ったニグロイド系の顔をしている。大きな目と、平たい鼻、分厚い唇をしたニグロイド系の特徴を持つ巨大な人頭像から受ける印象は、強い意志と忍耐力である。また、斜め横から眺めた人頭像は、高い知性と優しさをも漂わせている。

 人頭像の大きさは最大の物で、高さは2メートルをゆうに超え重さは20トンを上まわっている。その像の原石は堅い玄武岩で、ラ・ベンタからはおよそ100キロも離れたトゥストラ山脈からジャングルの中を運ばれている。またラ・ベンタで発見された人頭像の墓は、何千という小さな青いタイルで線が引かれ、多彩な土の層で埋められていた。

 
従って、この巨石人頭像は重要な人物を彫った彫像であることが分かる。そのため多くの考古学者は、それを支配者の肖像であると結論づけている。しかしながら不思議なことに、人頭像の顔形は前述のようにニグロイド系の人種的特徴が正確に描写されており、オルメク人を描いた物ではなさそうである。

 今日まで、オルメカ人の骨は一切発掘されていないため人種や顔形は明らかになっていないが、遺跡から発掘された支配者や神官たちの像の顔は、モンゴロイド系のアメリカ先住民の顔形によく似ている。となると、ニグロイド系アフリカ人はオルメカ文明とは一体どのような関わりを持っていたのであろうか? 彼らはいつの時代にアメリカ大陸に渡り、メソアメリカではいかなる立場にいたのであろうか? 学者はこれらの疑問には一切答えようとはしない。というより答えようがないといったところが真相に違いない。

 そうなると我々は再び推理を働かすしかない。考えられるのは、オルメカ・ヘッドと呼ばれるニグロイドの特徴を持つ人頭像は、実際にはオルメカ人によって造られた物ではなく、彼らの文明より遙かに古い先史文明の遺物だったのではなかろうかということである。

 アステカ人たちがマヤ文明やオルメカ文明の遺物を、自分たちの文明より遙かに古い時代の神聖な遺物として、ピラミッドや王墓の中に埋葬したのと同じように、オルメカ民族も、彼らの文明が始まった時には既に、過去の文明の面影を残す彫刻となっていたニグロの人頭像を遠い祖先の遺産として丁重に埋葬したのかもしれない。

 そう考えると、メソアメリカ最古の文明といわれているオルメカ文明よりも更に古い「先史文明」の存在が再浮上してくる。そして我々が学校で習った人類史には一切登場しない遙かに遠い過去に、メソアメリカの地で中心的役割を果たしていた人々は、モンゴロイド系とは異なる人種であったようである。彼等はおそらくニグロイド系アフリカ人で、当時すでに、地球的規模の文化交流が行われていた可能性すらある。

 紀元前3500年に突如として開花したエジプト古代文明の謎、巨大にして精緻な三大ピラミッド建造の謎、マチュピチュやクスコの巨石建造物の謎、ナスカの地上絵の謎は、エジプトやアンデスの古代文明に先立つ先史文明の存在とその文明からの技術と文化の伝承を考えることによって解かれる。

 そのことは、マヤ文明の持つおよそその時代にそぐわない高度な天文学や暦の謎や、オルメカの人頭像やアンクル・サムの身元の謎についてもまったく同様である。

 歴史学者は「有史前」には、文明や文化の一片も存在しなかったとする人類史をつくり上げてきているが、人頭像やアンクル・サムの謎解きによって、健忘症シンドロームにかかってしまった人類が遙か昔に忘れ去ってしまった遠い過去の驚愕的な歴史の実在性が一段と増してきたように思われる。 

 

 パレンケ遺跡

 「碑銘の神殿」地下王墓の発見

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  地下王墓発見の経緯

 1949年、メキシコの考古学チームを率いるアルベルト・ルス博士は、謎めいたマヤの古代都市として知られていたものの、まだ十分な発掘がなされていなかったパレンケ遺跡の発掘を開始した。ピラミッドの頂上部にあるお堂のような神殿の中央の部屋には二つの大きな灰色の石版があり、そこには620のマヤの絵文字が碁盤の目のように区分けされたマスの中に彫られていた。

 まもなく、ルス博士は象形文字の板のあった部屋の床部分に長方形の石のはめ込みを見つけた。さっそくこじ開けてみると、床板の下には土砂がたくさん詰まっているだけで別段変わったものは見つからなかったが、その片隅に、セラミックと思われる材質で出来た10センチ四方の四角い管の先端が覗いていることに気がついた。

 その四角い間の周辺にある土砂を取りのけると、その管がどうやら下に向かって延びているようであった。しばらく土砂を取り除く作業をして分かったことは、最初にこじ開けた石のはめ込みのようなものは、実はピラミッドの頂上から下に向かって伸びる「秘密の階段」の蓋であり、不思議な管はその階段に沿ってずっと続いていることであった。

 さっそく階段を掘り始めてみたものの、秘密の階段はどうやら意図的に詰められた思われる瓦礫に埋め尽くされていて、作業は遅々として進まず困難をきわめた。掘りはじめて3年の月日が流れた1952年6月10日、ついにルス博士は階段の底部までたどり着いたが、そこは神殿の床から26メートルも下で、すでに地下数メートルに達していた。

 生贄と思われる数体のカビだらけの遺骨が並ぶ丸天井の小部屋を通り過ぎると、その先には、三角の石の扉が立ちはだかっていた。この石を取り除いたアルベルト・ルスはその奥に見事な憤室を発見した。それは高さ7メートル幅4メートル奥行き9メートルもある巨大な部屋で、その中央には、幅二メートル、長さ四メートルほどの石棺があった。

 ルスはその時の光景を「広大な部屋で氷で作られているかのようであった。美しく飾った岩屋のようで、壁と天井の表面は鏡のように滑らかに加工されていた」と描写している。このように簡素で美しい部屋の壁には黄泉の世界を支配する9体の神々が浮き彫りされていた。

 さらに興味深いことに、管は墳室の中の石棺のそばまでつながっていた。30メートルにも及ぶ管の設置目的については今でもよく分かっていないが、神殿の出口が石版で覆われていたわけであるから通風管でないことだけは確かであった。おそらく何か宗教的な意味合いがあったのであろうというのが、大方の学者の考えである。

 5トンもある石棺の蓋が注意深く開けられたのは、更にそれから半年後、発掘から4年後のことであった。石棺の中には、背の高い成年男子の遺体が横たわっており、頭部には200個の翡翠(ひすい)で作られた仮面が置かれ、周りには多くの副葬品添えられていたが、その絢爛豪華さはエジプトの王家の谷を思い出させるほどであった。

 遺体は誰のものか?

 世紀の大発見として世界中にセンセーショナルな話題を提供することになったパレンケ遺跡の地下王墓は、このような経緯で発見された。しかし、この発見は、神殿から憤室に至る長尺の管の目的の他にも、いまだ解き明かすことの出来ない幾つかの謎を産むことになった。

 その第一が、埋葬された人物の正体である。考古学者の多くの意見の一致するところでは、石棺に埋葬されていた人物はパレンケ王朝第十一代の王、バカル王自身だということになっている。しかし、同じ考古学者が唱える説によると、バカル王は、西暦603年に生まれ、683年に80歳で死亡したとされており、死亡年齢は80歳ということになる。

 ところが、遺体を鑑定した専門家からは、埋葬されていた人物は成年男子で、推定死亡年齢が40歳前後という結果が発表されているのである。考古学者が唱える埋葬者とは、あまりに年齢差がありすぎ、パカル王説には大きな矛盾がある。

 また、残された碑銘によると、埋葬者は、「ハラチ・ウィニク(真実の人間)」としか記されておらず、そこにはパカル王の名はまったく現れていないのである。これは大変奇妙なことである。これだけ豪華な墳墓とピラミッド神殿がパカル王のためのものであるなら、当然、憤室や神殿内部にそれが記されているはずだからである。

 現に、近くで発掘された「太陽の神殿」内部にはパカル王の功績がマヤの絵文字でしっかり記録されている。さらに不思議なことに、石棺や憤室の中から、王であることを示す冠や正装したときに身につける装飾品の類がまったく発見されていない。

 翡翠の仮面やその他の豪華な宝飾品は、遺体の主が超重要人物であったことを裏付けている。しかし、王冠や法笏(ほうこつ)などの王や高官が正装時に身につける装身具が添えられていないことから、この墓の主「ハラチ・ウィニク(真実の人間)」は、権威とは無縁の人であったことが伺われる。

 石棺の蓋の謎 

 その死に際して、壮大な神殿ピラミッドまでが建造された謎の人物「ハラチ・ウィニク(真実の人間)」の正体を探る手がかりが、石棺の蓋に描かれていた。

 石棺の重たい石の蓋は、厚さ25センチ、幅91センチ、長さが3.8メートルもあり、エジプトの「王家の谷」にある新王国時代のファラオの墓の石棺の蓋を思い出させる。我々は今回墳室内部や石棺の蓋を見ることができなかったが、グラハム・ハンコックが訪れた当時は見学ができたようで、彼は石棺の蓋を見たときの印象を『神々の指紋』の中で次のように述べ、墳墓の主がパカル王であることに疑問を投げかけている。

トーチの光を当てると、そこに浮かび出るのは、髭がきれいに剃られた男で、ぴったと したボディースーツのようなものを着ており、袖口とズボンの裾の部分には丁寧に仕上げられたカフスがつけら れている。男は背中と腿を支える座席に楽な姿勢で座り、首の後部は気持ちよさそうに頭置きに預け集中して前方を見つめている。両手は動作中のようで、あたかもレバーかコントロール盤を操作しているかのようであり、裸の脚を折り曲げて軽く引き寄せている。これがマヤの王様バカルなのだろうか? 

 ハンコックが述べているように、石版に描かれた絵図は見れば見るほど不思議な絵である。男が握っている棒のようなものは飛行機の操縦桿のように見え、男の周囲に描かれた文様は宇宙ロケットの操縦席内のさまざまな計器類が想起される。鼻には酸素呼吸器のような管がつながっており、石版の後方には噴射するジェット・ガスらしきものが彫られている。

 この石板の拓本を見たNASAの宇宙ロケット設計者は、なんの予備知識もなかったこともあって、むしろあっさりと「ああ、アポロの発射シーンを図案化したんだね」と言ったというエピソードもある位だから、この絵を見て、人類初の宇宙飛行士ガガーリンが乗った宇宙ロケットの操縦室を思い出すのはは私だけではないはずだ。

 しかし、当時この種の乗り物がマヤ文明に存在したという証拠が発見されているわけではない。状況証拠としては「ナスカの地上絵」やカバー遺跡の「宇宙飛行士像」やラ・ベンタの「機械を操作する人物像」など宇宙との関わりがありそうなものは幾つか発見されているものの、それらは「ハラチ・ウィニク(真実の人間)=宇宙飛行士説」の決め手になるほどのものではない。

 したがって、学者は当然このような考えを受け入れるはずがなく、「男の魂が死の領域に移行するところ」だとか、「怪物の肉のない口の中に背中から倒れ込むところだ」と主張しているが、こちらの説明がまた、はなはだ説得力に欠けるのも事実である。

 いずれにしろ、遺体のそばに置かれた小さな翡翠の彫像は年寄りの白人の像で、長いロープをまとい、あご髭をはやしていたというから、石棺の主である「ハラチ・ウィニク(真実の人間)」が、神々(ケツァルコアトル一派)と関わりのあった意外な人物であった可能性は十分に残されている。


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