インカ帝国の首都 クスコ

リマからアエロ・コンチネンテ航空でクスコに向かう。

クスコは、インカ帝国時代首都として繁栄をきわめた町で、リマから空路で凡そ1時間ほど南下したアンデス山脈寄りの内陸部にある。距離数で言うなら500キロほどだから東京ー大阪間ほどの距離になる。機内で、日本を出るとき鞄の中に入れておいた『インカ帝国探検記』を取り出し、インカの歴史のおさらいを始めた。この本は、増田義郎さんが中公文庫から二十数年前に出されたもので、インカの歴史や文化、それにフランシスコ・ピサロのインカ征服の様子が読みやすく書かれており、既に何回となく読んできたものである。

インカの歴史については、詳細レポートでふれるが、多くの方が考えられるよりは、遙かに新しい時代で、その期間も、数百年というごく短いものである。正統派の歴史学者の説によれば、紀元後1000年前後にクスコに誕生したインカ文明は、1400年代に入って、突如として領土拡張をはじめ、北はエクアドルから南はペルーまで、南北4000キロにわたる大帝国を築きあげ、文字通りの黄金文化の華を一気に咲かせたとされている。

しかし、残された巨石建造物や精緻な石組みに見られる超高度の土木建築技術、また、当時の文化レベルやペルー南端のチチカカ湖地方との関わりなどを眺めたとき、正統派学者の説くインカ史ではとうてい理解しがたいことや、納得のいかないことが多すぎるのである。また、インカ族の「語り部」(かたりべ)が伝える「ビラコチャ伝説」は、民族の発生を遙かに古く、原初のアンデス文明の始まりにおいており、連綿として伝わる驚くべき歴史を今日に伝えている。

『インカ帝国探検記』に書かれた、10世紀から16世紀にかけての短いインカ帝国の歴史とは別に、ビラコチャ伝説が伝える、チチカカ湖文明を源流としたインカの歴史、また、超人ビラコチャによってもたらされた、大いなる技を伝承しつづけたインカの歴史に思いをはせているいるうちに、いつの間にか機はクスコ空港に着陸態勢に入っていた。

bulletクスコ空港

標高3,360mは高山病の出る高さである。長距離バスなどで時
間をかけて行くのと違い、飛行機の場合は注意が必要である。現に、タラップを降りてロビーに向かう途中、何人かの外国人乗客がバタンバタントと倒れるのを見て驚かされた。

空港の向こうに見えるのがクスコの市街である。

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bulletコリカンチャ神殿(太陽の神殿)

クスコ西方の強力なチャンカ族との戦いに勝利し、インカ帝国第9代皇帝に即位したパチャクティー・ユパンキは、クスコ市を帝国の首都にふさわしい大都会として建設し直した。そのとき市の中心部となったのが、コリカンチャと呼ばれる「太陽の神殿」と、その前の広場であった。

この神殿の中には戦略品の宝物や、その他の国の貴重な財宝が納められていた。その為、皇帝一族と高位の神官以外は、めったに入ることが許されていなかったといわれている。

16世紀、コリカンチャをはじめて目にしたスペインの征服者たちは、神殿を囲む石組みの素晴らしさに驚くと同時に、建物の中に入った瞬間、息を飲んだ。それもそのはず、金銀財宝に憑かれてここまでたどり着いた彼等にとって、そこには夢のような世界が広がっていたからである。

神殿内には、金の石が敷き詰められた畑に、金のトウモロコシが植え付けられ、さらに等身大の金のリャマを連れた人間像も建っていた。又、太陽の祭壇には分厚い金の太陽像が安置されており、日の光を受けてまぶしいほどに輝いていたのである。

因みに、コリカンチャとはケチュア語(インカの公用語)で、コリ(Qori)「黄金」とカンチャ(Cancha)「居所」あわせた言葉である。この言葉の意味を知らずに入った人々は、さぞや腰を抜かんばかりに驚いたことだろう。

その後、スペイン人はこの宮殿にあった黄金の多くを、溶かして延べ棒にして本国に持ち帰ってしまった。どんな言い回しをしようと、征服者とは所詮そのような者に過ぎないのである。

この宮殿の宝以外も含めて彼等が略奪した黄金の量の凄さは、大量の金が一時期に流れ込んだ為に、スペインやヨーロッパで、インフレが起きたとされていることから想像できるというものだ。

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bulletサント・ドミンゴ教会の内部

内壁の石組みとコロニアル風の柱に違和感が感じられる。

黄金で一杯だった神殿からほしい物を持ち出した後、上部を取り壊し、残った土台の上にコロニアル風の寺院 サント・ドミンゴ教会を建てた。

その後、1650年と1950年の地震で上部の教会建物は全て崩壊し、そのたびごとに再建されたが、土台の石組みがびくともしなかったことは、つとに有名である。

「それは特殊な設計に基づく、多角形な石の組み合わせによる、洗練されたシステムのおかげである」とハンコックは述べている。

少なくともこの技術は三代や四代で完成されるものではない、何世紀も前から受け継いだものに違いない。それは、恐らく原初の建国者ビラコチャの時代から連綿と受け継がれたものに違いない。

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bullet精巧な石組みの内壁 T

少なくとも、1,000年の年月と、その間の2度に渡る大地震にも、微動だにしない石組みは、インカの石組みの技術が現代の技術を凌駕していることを如実に物語っている。

 

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bullet内壁 U

手前の石の台は、当時、何か祭礼に使われた物だろうか?

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bulletクスコの市街でインディオの親子と

細くて、インカの石組みが残る最もクスコらしい通り。

200mほどつづく、インカの石組みの中でも最も長い通りを歩くと、当時の石積の技の素晴らしさに驚かされる。   

サルミエントというスペインの軍人が『インカ史』の中で、「石を正確に、同じ大きさで積み重ね、継ぎ目に一分の隙間もないように組み合わせたその技術は、インカが銑鉄もはがねも知らなかったことを考えあわせると、文字通り驚異というほかはない」と述べているが、この思いは、16世紀の一記録者だけのもんではなく。今日ここを旅する者すべてが感じることである。

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bullet住宅街

現代式の建物がインカ時代の石積みの上に建てられている。

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bulletカテドラル

アルマス広場に面して建つカテドラルは、インカ時代のビラコ
チャ神殿の跡に建てられたもの。

1550年から建築が始まって、完成したのは100年後であったというから、如何に凝ったものかが伺える.なかでも銀300トンを使ったメインの祭壇は一見の価値がある。

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bulletラ・コンパーニャ・ヘスス教会

アルマス広場のカテドラルの近くに建つ教会。インカ帝国の第
11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿を取り壊し、その上に建てたもので現在の建物は、1650年の大地震の後に建て替えられ
ている。

     
                 次は、クスコの郊外、「サクサイワマン城塞」跡、と「タンボマチャイ」(水浴場跡)を訪ねます。