サクサイワマンの古代城塞
 

クスコの郊外、北方1.5キロの丘の上に「サクサイワマン」と呼ばれる城塞跡がある。毎年6月24日には、この壮大な舞台で、往時を偲んで、きらびやかで荘厳な儀式「太陽の祭典」が、インディオによって何千人の観光客の前でとりおこなわれる。

このサクサイワマン城塞もスペイン人がクスコを占領したとき、城塞の上部や塔などを破壊し、教会や政庁を作る材料にしてしまった為に、現在は城壁も砦も下部構造しか見ることが出来ない。

それでも正面の幅300mの砦は、さまざまな形の巨石が、ジグソーパズルのように一分の隙間もなく巧みに組み合わされている。中でも最も驚かされるのは、高さが私の背丈の4倍近くもある数百トンの超巨石が、周囲の、これも何十トンもありそうな巨石群と多面体で、つなぎ合わされていることである。因みに、最大の巨石は360トンを越すと言われており、この重さは、なんと地下鉄の車両15台分に相当する。(写真添付)

まさに、三次元のジグソウパズルをこともなげに組み合わせたような、巨石同士の接合部分には、今でもカミソリの刃一枚が入る隙間がない。実は、日本を出るときまで、私は、参考文献に書いてある「カミソリの刃が一枚も入らない」というのは、比喩に近い言葉ではないかと思っていた。そこで今回の旅に出るときリュックの中にフェザーの片刃を一枚忍ばしておいた。

ところが、いざ現場に立って、精緻をきわめた石組みに対峙したとき、とても、それをリュックから取り出す気にならなかった。片刃どころか、空気さえ通さぬ完璧なまでの接合部分を前にして、唖然とした私は、語る言葉を失っていた。

驚きの後に、新たな疑問が浮かぶ。これらの石組みの技術とは別に、眼前に立ちはだかる馬鹿でかい巨石群は、いったいどうやってここまで運ばれてきたというのだろうか?現在知られている石切場は、遺跡から15ないし35キロメートルも離れた山道の彼方にあるというのに。

考古学者は、「てこの原理」だとか「巻き上げ機」だとかを持ち出し、膨大な「人力」と併せて説明しようと試みているが、現物を目にすると、そのような理論は机上の空論に過ぎないことが実感される。

植民地時代の始め、この石壁を見たガルシラソ・デ・ラ・ベガは次のような言葉を書き残している。

 「実際に見ないことにはその大きさは想像できないだろう。だれでもこの石壁を近くでて、
 注意深く観察すれば、あまりにも途方もないものなので、工事の魔術でも使われたのでは
 ないかと思ってしまう。あるいは人間ではなく魔人の仕事のようにすら思える。

 巨大な石がたくさん使われている。インディオたちはどのように石を切り出し、どのように運
  び、どのように刻み、どのように精密に積み上げたのだろうか?彼らは鉄も鋼鉄も知らない
 ので、岩に切り込みも入れられず、石を切ったり磨いたりすることもできないはずだ。

 さらに運搬には必須とおもわれる馬車も牛舎も、かれらの世界には存在しない。石は極め
 て巨大で、運ばねばならない山道は険しいのだ・・・・」
                                
                          (『神々の指紋』グラハム・ハンコック著より)

因みに、ガルシラーソはスペインの名家の出の騎士と、インカの皇女の間に生まれたアメリカ大陸最初の混血児の一人で、征服直後のクスコの生活を身を以て体験した上に、母方の親戚からンカの去りし日の栄華やクスコの絢爛たる日々を、何度も何度も聞いて『インカ皇統記』など貴重な記録を今日に残した人物である。

外来のスペイン人がインディオから聞いた話と違って、インカの過去の時代の内情を十分に聞き出せる立場のガルシラーソをして、数代前の皇帝の時代に建造されたというサクサイワマンの城塞の建造方法が、全く雲をつかむ出来事のように書かれていることは、考古学者が言うように、サクサイワマン城塞が第9代皇帝パチャクティ・ユパンキの時代の建造ということはあり得ないことを示している。

更に、ガルシラーソのもう一つの書、『インカに関する公式報告書』の中に、大変興味深いことが書かれている。

「・・・歴史上のインカの王がサクサイウマンの古代城塞を建設した先駆者の業績に挑戦
 したことがある。この挑戦は巨大な石を一つだけ数キロメートル離れたところから運び、
 城塞に追加しようとしたものだった。二万人以上のインディオたちが、山を越え急激な
 丘を上り下りしてこの石を引っぱった。・・・・ところが断崖にさしかかったところで、石が
 人々の手から離れて落下し、3000人もの人を押し潰した」   (『神々の指紋』より)

これらの事柄を総合すると、サクサイワマンの城塞はインカ時代に建造されたものではなさそうなことがわかる。上記の報告文書には、挑戦者の王の名が記されていないが、考古学者の言うように、皇帝パチャクティ・ユパンキが建造したものならば、その後の皇帝となると第10代か第11代皇帝が挑戦者ということになるだろう。なぜなら、第12代(ワスカール)、13代(アタワルパ)皇帝の二人は即位後数年、又数ヶ月しか在位していないので、こんな遊び事に関わっている時間はなかったからである。

とすると、第10代皇帝トウパック・ユパンキにしろ、第11代皇帝ワイナ・カパックにしろ、彼等が、わずか1,2代前の皇帝がなした事業の、ほんの一部の工事に過ぎない、たった一つの石を城塞まで運ぶことが出来ないのはおかしい。なぜなら、巨石運搬の技術が、わずか数十年の歳月の内に、すっかり忘れ去られてしまうことは考えられないからである。いずれにしろ、たかが一個の巨石を運ぶのに何千人もの死者を出しているようでは、あのサクサイワマン城塞の建造など、とてもおぼつかないことだけは確かである。

偉大な皇帝とされている第9代皇帝パチャクティー・ユパンキは、インカ帝国の領土を大きく広げただけでなく、法律の整備や、暦の改訂、宗教改革とともに、首都クスコの再構築などの多くの業績を残している。しかし、ことサクサイワマンに関しては、ユパンキは、新たな城塞の建造者ではなく、当時既に存在していた古代遺跡の修復者に過ぎなかったように思われる。ひょとすると、その際に、おのれの実力を過信するあまり、先駆者の業績に挑戦しようとして、先述の巨石運搬の大惨事を引き起こしたのではなかろうか。

このように見てくると、今日遺跡として残っているクスコや周辺の建造物の多くは、恐らく先祖から受け継いだと思われる優れた石細工の技を持った、インカ人の手によるものと思われるが、サクサイワマンやマチュピチュの遺跡に代表されるような、数十トン、数百トンの巨石を用いた建造物は、インカ帝国時代のインカ族ではなく、彼等の遠い祖先か、まったく別の民族かは別にして、それより遙か昔の人々によって造られた物ではなかろうかと思われる。そうなると、彼等は単に、それら建造物の利用者、修復者に過ぎなかったことになる。

ここでもまた、工学と建築学に多彩な技術を持った伝説の人、ビラコチャの姿が浮かんでくる。

 

bulletサクサイワマンの丘から眺めたクスコの町の遠景


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bulletクスコの中心地

   赤茶色の瓦が特徴的だ。

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bulletサクサイワマンの城塞跡 T

 
サクサイワマンの高台へ登る途中で、第2
の通路に通じる石門。城壁の設計士の1人アカワナに捧げられたものと言われている。

 

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bulletサクサイワマンの城塞跡 

 
300mに渡る石の城壁の一部を成している巨石の接合部分。カミソリの刃どころか空気も通らないほど見事に組み合わされていることがお分かりになるであろう。

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bullet多面体の巨石

   
11面体になるのであろうか、この多面体構造が地震などにびくともしない石積を造り上げているものと思われる。

 

 

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bulletワクサイワマンの城塞跡 V

  これが360トンを越す巨石を組み込んだ石壁。

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bulletケンコの遺跡

 

サクサイワマンの北1キロメートルほどの小高い丘
の、ケンコと呼れる礼拝場の遺跡跡に残された、
ジグザグに彫られた石。まるで蛇の通り道のように見える。

宗教の儀式の際に、ジグザグの溝にティーチャや
ヤマの血を流して、農作物の収穫やインカ住民の生活を占ったという。

 

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bulletタンボマチャイの遺跡跡T

サクサイワマンから東北に7キロメートルほど行ったところにある。

タンボマチャイとは、「倉庫と休養」という意味だそうだから、そこは、緊急時用の穀物の貯蔵所であり、また皇帝一族が政務から離れて休養に来た保養所でもあったのだろう。

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bulletタンボマチャイ U

タンボマチャイの一角にある「水浴場跡」

雨季乾季を通して、常に同じ量の水が湧き出ることで知られている聖なる泉は、インカ時代には沐浴場して使われていたらしく「水浴場跡」とも呼ばれていた。

だだ、この水の水源はいまだもって不明で、かってその源を探ろうと、いろいろな河や池に色素をながしたらしいが、結局分からずじまいであった。

ただし、ここで見られるように同じ石組みでも、前方と後方では、大分精巧さに違いが認められる。元々あった石組みの跡に、インカ時代に手前の沐浴場が加えられたのではあるまいか。

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bulletタンボマチャイ V

後方の石組みの写真を見ると、精緻な加工技術がよく分かる。山間部に建造された石積みが、何回かの地震(最低2度の大地震が記録されている)を経て後に、これだけの精度を保ちうるものなのだろうか。

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bulletタンボマチャイ W

現地のインディオと一緒のスナップ。

インディオの姿を見る度に、彼等は、本当にあのナスカの地上絵や巨大なサクサイワマンの石組みを、建造した偉大な民族の末裔だろうかと思ってしまう。でもこの気持ちは、遺跡を訪れる誰もが一様に感じる思いではなかろうか。

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          いよいよ次は、ペルー探索の最大のハイライト、謎の空中都市「マチュピチュ」に入ります。