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Dr.ヴィクトリアーノを訪ねる

マヤ文明の紀元を新たな視野から説くヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレス博士と対談するために、 通称「シェラ」と呼ばれているグアテマラ第2の都市 「ケツァルテナンゴ 」へ向かった。シェラは標高2300mの高原都市だが、周囲の村を合わせると20万人を超す大きな都市である。観光で訪ねる場合、バスなどの表示はケツァルテナンゴではなく、「Xela」(シェラ)と書かれているから注意した方がよい。

これまでの定説とされている歴史観で眺める限り、説明し難い数多くの謎がメソアメリカ文明には存在していることを、私は著書やHPの中で語ってきた。260年周期のツォルキン暦(神聖暦)や 5200年という長大な年数を念頭において作られた長期暦、また、当時の文化水準からはあまりにかけ離れた高度な天文学や数学に関する知識、またそれにもとづいて建造されたピラミッド群、不思議な白人像と 黒人の人頭像、定かな理由もないままに忽然と都市を捨て消えていった文明と民族 ・・・・・
などである。

『謎多き惑星地球』(徳間書店刊)を書いている最中、私はこれらの多くの謎を解き明かす革新的な仮説が、近年、グアテマラのマヤ文明研究者ヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレス氏によって説かれていることを知るところとなった。

マヤの末裔で、グアテマラのサンカルロス大学の哲学教授であると同時に、シャーマン(呪術師)でもあるヴィクトリアーノ博士が説くマヤ文明論は、これまで西欧的歴史観に立って説かれてきたものとは大きく異なり、革新的な マヤの歴史観を提示していた。それだけに是非一度博士にはお会いしたいと思っていたが、今回念願が叶うことになったという次第である。
 

 

 
 


オルメカヘッド(人頭像)
その容姿はアフリカ系黒人に酷似している

 


ヴィクトリアーノ・ファレス博士の説く「マヤ・トルテカ文明起源説」は欧米はもとより、我が国においても、これまで一般的にはまったく知られていなかったものであるが、 この仮説の一番驚く点は年代設定である。従来の通説では、マヤ文明の絶頂期といえば西暦200年から900年頃の、いわゆる「マヤ古典期」と呼ばれる時代が定説となっていたが、 博士によれば、実際にはその時代はすでに進歩は終わり、停滞から退廃へと向かっていた時期であったというのである。

マヤの歴史の「第4の時代」の始まりを示すと思われる長期暦が、紀元前3114年から始まり、その終わりが西暦2012年とされていることについては、既にご存じの通りである。しかし、ヴィクトリアーノ説では、紀元前3114年はマヤ・トルテカ文明の一つの節目に当たる、長大な歴史の中の第 5段階の始まりを指すに過ぎず、第1、第2、第3、第4段階はそれよりさら太古の時代にさかのぼることになるのだというから驚きである。

詳細を語れば長くなるので、興味ある人は『謎多き惑星地球』を読んで頂くとして、博士の仮説の中でもう一つの興味深い特徴は、 オルメカ文明の紀元である。博士はマヤ文明に先立つ文明とされているメキシコ湾岸沿いで栄えたオルメカ文明も、実は、太平洋沿岸の高地に住んでいたマヤ民族のオルマン族と呼ばれる一族が、紀元前2000年頃にユカタン半島に移住して築いた文明の一つに過ぎないというわけである。

日本人のマヤ学の研究者たちからは批判されている博士の説であるが、私は西欧の学者が作りだした既存のマヤの歴史感よりはずっと正鵠(せいこく)を得たものではないかと考えている。 現に、ドン・アレハンドロもラ・ベンタ遺跡から発掘された人物像には、マヤ人との共通性があると語っていた。

マヤの先住民の中に飛び込みもせず、また、彼らの意見に耳を傾けることもなく、机上の空論を続けている学者の主張などあまり当てにしないほうが賢明のようである。 博士とのインタビューは今回のテレビ番組には登場しなかったが、『謎多き惑星地球』で語った内容を再度確認する上で、大変有意義なものであった。

ヴィクトリアーノ 博士はドン・アレハンドロと同様、80歳を超す高齢であるが、現在もマヤ・トルテカ文明説に基づいたキチェー族の歴史を、自身の開設した研究所で地元の人々に 語り続けており、私たちが訪ねた日も、十数人の人たちが集まって熱心に聞いていた。 なかなか気骨のある学者であった。

 

 



 


標高3000m近い峠を
越えて行く。
 

行商に出かける女性たち

子供も寒いらしく
防寒具をまとっていた

 



 


ここにも仲のよい兄妹がいた
 

頭に荷物を載せて歩く
のが習慣となっている。


トウモロコシを運ぶ
農家のおじさんの
笑顔が素晴らしい。
 

 



 



 


11月になると「タコアゲ」が始まる
ようで、道路沿いの店にたくさんの
凧(タコ)が並べられていた。
 

茅葺きのレストラン


靴磨きする子供

ドン・アレハンドロも子供
の頃はこうして靴磨きを
していたと語っていた。
 

 



 


ヴィクトリアーノ博士と対談
 


ドン・アレハンドロ夫妻や
ヴィクトリアーノ氏と語りあう。
 

帰路の山越えは霧が
かかって幻想的であった。

 


 

 

 

 

 

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