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熊野本宮と熊野古道

 

 

 
     

 

日本最大の半島である紀伊半島の南端に位置するのが熊野地方である。その熊野と言えば思い浮かぶのが熊野三山、2004年に世界遺産に制定された熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社である。

昨年11月の大阪講演を終えた後、講演会スタッフの青山氏の車で本宮大社がある田辺市に向かった。新大阪からおよそ4時間半、その夜は民宿に泊まって翌朝7時、三山(三社) への参詣(さんけい)に出発。熊野の参詣には古来からの習わしがあって、本宮、速玉大社、那智大社の順に回り、最後にもう一度本宮に戻って参詣することになっている ことを、青山氏から教えて頂いた。

本宮と速玉大社は車でおよそ1時間、速玉と那智大社は40分の距離で、一日で回るには朝早く出発する必要がある。熊野三山はもともとは個々の独立した神社であったが、平安時代の後期に祭神を勧請(かんじょう)し合って、熊野別当の管理となり現在に至っている。

古代から明治に架け、参詣者の心を虜(とりこ)にした本宮大社は、近畿最大の河川・熊野川中流の中州の鬱蒼とした森の中にあった。この中州は大斉原(おおゆのはら)といわれ、 そこに立つ3本のイチイの木に崇神天皇(すじんてんのう)の時代に、熊野権現が3つの月の形をした光体に乗って降臨したと伝えられている。

しかし明治22年に至って、熊野川の未曾有の氾濫で神社は大水害に見舞われ、壊滅的な打撃を受けるところとなった。かろうじて惨禍を免れた大社 と別宮12社の内の「上4社」は、旧社地から700m西の高台の現在地に移され現在に至っている。

神門をくぐった正面がご本殿の第三殿で、そこにはスサノウノミコトの別称といわれる家津御子神(ケツミコシン)を祭神としている。

 

 

 
 


熊野古道を通って参詣する山岳修行者たち

 



「熊野」という地名が何を意味していたのかについては、様々な説がある。

@ 「クマ」は古語で「カミ」を意味し、「神のいます所」とする説
A 「クマ」は「こもる」の意で、「樹木が鬱蒼と隠りなす所」とする説
B 「クマ」は「こもる」の意で、「死者の霊魂が隠る所」とする説
C 「クマ」は「隅(くま=すみ)」の意で、都から見て「辺境の地」とする説

いずれの説を取るにしろ、熊野には開けた明るいイメージはなく、木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地というイメージが強い。熊野の地名が初めて登場する文献は 「日本書紀」。書紀によると、熊野は火の神を産んで命を落としたイザナミノミコトが葬られた地とされ 、本宮の第一殿には主神であるイザナミノミコト神が祀られている。

熊野が広くその名を知られるようになるのは、院政期、上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われるようになってからである。 平安時代後期の院政期には熊野御幸がほぼ年中行事と化すほどで、白川・鳥羽・後白河天皇たちの熊野信仰は大変な熱の入れようであったようだ。

その後、室町時代に入り武士の世となって院政が衰えたあと熊野御幸は衰退していったものの、熊野信仰は衰えることはなかった。上皇たちは来なくなったが、 神仏習合により熊野三山の主催神と仏尊とが同一視されて、浄土信仰の日本第一の大霊験所として栄え、「蟻の熊野詣で」と言われるほどに、武士や庶民が列をなして詣でるようになったからである。

熊野に参詣する道は熊野古道と呼ばれ、古道には串本回りの「大辺路(おおへち)」、紀伊田辺から山道を通って本宮に至る「中辺路(なかへち)」、高野山から南下する「小辺路(こへち)」、三重県の伊勢を通る「伊勢路」など何本かのルートがあったが、上皇や 皇族・貴族が使ったのが「中辺路」で、およそ1ヶ月半の道中旅であったという。

京都を出発した上皇や貴族たちは、先ず船に乗って淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸。そこからが熊野古道の紀伊路の始まりである。天満橋から海岸筋を通り、熊野の玄関口、口熊野といわれた田辺まで南下、田辺からは中辺路の山中の 険しい道を本宮向かう。

本宮で参拝した後、熊野川を船で下 って熊野川河口にある新宮に詣る。新宮からは再び徒歩で海岸線沿いを辿り、それから那智川に沿って那智大社へと進む。こうして辺境の山岳地帯にある熊野へ詣でることは都人 (みやこびと)にとってまさしく苦行の旅であったが、苦しみながら詣でるからこそ、熊野の神様の御利益があるのだとされていたようである。

こうした歴史を持つ熊野古道であるが、現在は熊野三山と共に世界遺産に制定され、現在も修行を目的とした修験者たちが参詣に使っている。今は大分楽になっているようだが、かっては多雨多湿の狭く長い坂道で、野獣の遠吠えに怯え、山蛭(ひる)や毒蛇に悩まされる、まさしく命がけの山岳路であったようだ。

こうした厳しい熊野御幸を院政期には、白川上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇に至ってはなんと34回にわたって行っている。また鎌倉時代に至っても後鳥羽上皇が28回行っている。 熊野三山はよほど神聖にして霊験あらたかな地と考えられていたに違いない。

 

 



 

熊野川


本宮入り口に立つ鳥居
 

鳥居から本宮への参道

 



 


本宮の神門
 


神門をくぐって左手にある
第一殿には、イザナミノミコト
の別称とされる夫須美大神
(フスミノオオカミ)が祀られている。

 


熊野のシンボル

神武天皇を導いたとされる
八咫烏(やたがらす)

 

 



 



 


平安朝の宮廷女人歌人
和泉式部が建てた石碑

熊野へ詣でたが女身のため、
さわりありて奉幣できなかった
ことを悲しんで詠った歌

晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて
月の障りとなるぞかなしき」

 

本宮本社末社図に描かれた
江戸時代末の社殿。

熊野川の中州、森に囲まれ
た「大斉原」(おおゆのはら)
に、本宮の本社・末社12社
があった。


「大斉原」(おおゆのはら)
の入り口に、平成12年に
建立された日本最大の
大鳥居。

高さ34メートル、幅
42メートル
 

 



 



 

明治22年熊野川未曾有の
大洪水で上、中、下各4社の内、
中、下の8社が災害をこうむり、
上4社が西方700mの高台に
移された。


かって本宮本社があった
「大斉原」(おおゆのはら)

中、下4社の2基の石祠
(せきし)が建てられ、8柱の
御神霊が祀られている。
 


左側の石祠には、中4社の
祭神・オシホミノミコト、
ニニギノミコト、
ヒコホホデノミコト、
ウガヤフキアエズノミコトが
祀られ、今も祭祀が継続
されている。
 

 

次回は熊野新宮・那智大社です。

 

 

 

 

 

 

 

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