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 手前が第三ピラミッド


大ピラミッドを離れてギザ台地と周辺の砂漠をラクダで探索した。

第二、第三ピラミッド、スフィンクス、葬祭神殿、河岸神殿、これらの巨石建造物はエジプトの他の遺構とはまったく異なる独特の雰囲気を持っている。巨大にして簡素、素朴にして偉大・・・・そこには、今日の常識では推し量れない、壮大にして超ハイテクの建造技術の痕跡が残されていた。

今回ご覧いただく写真には、どれも皆観光客の姿が写っていない。いかに世界中の人々が、テロの再発を恐れているかが如実に現れている。

 

   著作権について

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  第二ピラミッド@

「葬祭殿」から眺めた第二ピラミッド。

「第二ピラミッド」は第四王朝の「カフラー王」が建てたとされている。「大ピラミッド」に比べて一回り小さいが、地盤の高さの関係から大ピラミッドより大きく見えることがある。

高さは143メートル、底辺の長さ215メートル、傾斜角度53度。

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  第二ピラミッドA

第二ピラミッドの頂上部分には、まだ化粧石の一部が残されている。

写真を見ると、積み石の下段部分、およそ5段位までは、横幅が6−7メートルもある巨石が使われているのが分かる。

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  第二ピラミッドB

東側に使われた巨石をクローズアップで撮影したもの。これらはみな100トンから200トンクラスのものばかりである。

『オリオン・ミステリー』の作者ロバート・ホーヴァルは、三大ピラミッドの中でこの巨石の部分だけ、洪水前の先史文明によって造られたものではなかろうかと述べている。

しかし、大ピラミッドの「王の間」などにも100トンを越す巨石が使われていることを考えると、ホーヴァルの説には無理があるように思われる。

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  葬祭殿の巨石

「第二ピラミッド」の東側に残された「葬祭殿」に使われているブロックは、途方もなく巨大なものばかりである。木内氏の立つ横の巨石は、縦横、奥行きがおよそ5メールもあり、300トンを悠に越している。(写真中)

ペルーの「サクサイワマン城塞」で見た巨石と同様、ここまで来るともはや人力で動かすことは不可能だ。

エジプト学者がどう言おうと、これらが古代エジプト人の建造物でないことは間違いない。

写真一番下の巨石を見ると、巨石の中央部が見事に彫られており、その両サイドに丸い穴と、四角い穴が開けられているの分かる。

どうやら、ギザの巨石建造物もペルーの遺跡に見たのと同様、凹凸を刻んで他の石とかみ合わせる技法を用いていたようだ。

木造建築で用いる凹凸を刻んでかみ合わせる技法も、200トン300トンの巨石が対象とするとなると、現代の最先端技術でも、もはや不可能に近い。

 

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  第三ピラミッド

ギザ台地の一番南側にある「第三ピラミッド」は、メンカウラー王の建造によるものとされている。大きさは第一、第二ピラミッドに比べると大分小さいが、それ以降の年代に建てられたものに比べると大きい方である。

高さは66メートル、底辺の長さ103メートル、傾斜角度51度。容積では大ピラミッドのおよそ10分の1になる。(23万立方メートル)

南側には、「第一ピラミッド」と同様、王妃のピラミッドが3基建てられている。

 

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   一休みするラクダ

西南の砂漠から撮影したもの。背景のピラミッドは、手前が第二、後方が第一ピラミッド

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  ラクダに乗る

ピラミッドの周辺を探索するには、ラクダが一番である。

乗り心地は結構快適で、ラクダの背で揺られながら眺めるピラミッドの味は格別である。

 

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  スフィンクス前の広場からの展望

第一ピラミッドと第二ピラミッドの間を抜けて、ナイル川に向かってギザ台地を降りてくると、スフィンクスの前の広場に出る。

東を向いて鎮座しているスフィンクスの前にあるのが、「河岸神殿」と「スフィンクス神殿」である。河岸神殿と言われるいわれは、ナイル川から引かれた水路がすぐ横まで来ていたからである。

いつも溢れるほどの観光客でごった返しているピラミッドの前も、テロのお陰で、ほんの数人しかいない。背景にあるピラミッドは、右側(北側)が大ピラミッド、左側が第二ピラミッドである。

 

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  スフィンクス

三基のピラミッドを眺めたあとで見ると、大スフィンクス像も小さく見えるが、全長73メートル、高さ20メートルの巨像は、悠に7階建てのマンション一棟分はある。

地質学者のロバート・ショック博士によって、スフィンクスとそれを取り囲む内壕の壁に残されていた浸食の跡が、大量の雨水によるものであることが明らかにされ、スフィンクスの建造年代は紀元前7000年へと一気に5000年さかのぼることとなった。

スフィンクスの建造時代がここまでさかのぼるなると、ピラミッドもまた、エジプト学者が説くような年代(紀元前2500年頃)の建造物ではなくなってくる。

 


  河岸神殿から第二神殿への参道

河岸神殿の北側から第二ピラミッドの葬祭殿に向かって、参道が真っ直ぐ延びている。

スフィンクスの眺めは、この参道から見るのが一番である。

 

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  河岸神殿

河岸神殿もスフィンクスと同様、カフラー王の建造物とされている。

しかし、スフィンクスを彫った時の石で造られた神殿は、スフィンクスの建造年代が紀元前7000年以降にさかのぼることになると、同じように太古の時代の建造物ということになり、クフ王建造説は瓦解することになってくる。

写真(下)を見ると、最初に使われた石灰石が長大な年月によって浸食され、その上を覆うように花崗岩で修復しているのが分かる。

三大ピラミッドやスフィンクスと同じ先史文明の遺構を、古王国時代に修復したものと思われる。次回に掲載する「インベントリー石碑」には、神々の時代(先史文明)にオシリス(神を祀る神殿として造られたと記されている。

写真(上)は神殿内部の石柱の間

写真(中)は、神殿から眺めた「第二ピラミッド」。上の参道の写真を含めて、三枚の写真とも全く人の姿が写っていないが、このような写真を撮るチャンスは、我々一般観光客には滅多にない。

虎穴に入って、はじめて撮れた貴重な写真である。

     

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