ティアワナコ

 

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プーノの標高は3800M、南半球が冬になるこのシーズンは夜間はマイナス10度ほどになる。しかし日中、陽が射すと温度は急上昇し暑いくらいで、上着を着たり脱いだりで温度調節に忙しいほどだ。

9:30プーノを出発した我々は昼過ぎに国境の町デサワデロに着く。ここでボリビアへの出国と入国の手続きをとる。1時間ほど手間取ったあと、ようやくティアワナコに向け出発できた。

ペルーも決して裕福な国ではないが、ボリビアに渡ると貧しさが一段と増して見える。治安もペルー以上に悪いようだ。

面積は日本の約3倍でペルーとほぼ同じ広さであるが、国土の3分の1をアンデス山脈が占め、6000M級の高峰が14座も連なっている。まさに高原国家と言った感じだ。

ボリビアと言えば、南米ではパラグアイとともに海を持たない国として知られているが、琵琶湖の12倍もあるチチカカ湖があって、ティアワナコに向かって走っていると、まるで海岸沿いを進んでいるように感じられる。

国境からおよそ50キロほど走ると、古代遺跡ティアワナコに着く。

 

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   広大なチチカカ湖

彼方に見えるのが「月の島」で、この附近の湖底30Mで国際調査隊がインカ文明より遙かに古いティアワナコ文明の遺跡を発見した。

長さ3キロ、幅600Mの島が水没しており、寺院と見られる巨大な建物(長さ200M、幅50M)や長さ800Mの石垣、石畳の道路、段々畑、陶器の破片などが発見されている。

発見された遺跡は、おそらく先史文明の遺構で、1万5000年前の大異変で崩壊し湖底に沈んだ都市跡ではないかと思われる。

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  国境の町「デサワデロ」

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  カラササヤ

カラササヤは巨大な角柱と石壁に囲まれた広大な広場で、大きさは、135M×130M。中からは沢山の人間の形をした立像(モノトリウム)が発見されたらしいが、今はほとんど残っていない。

カラササヤが精巧な天体観測所として機能していたことを多くの学者が認めている。夏至や冬至などの季節的な変化を精密に割り出すために、春夏秋冬の太陽の出没の方位などを観測していたようである。

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  壁の角石

分厚い石が組み込まれた壁は、一定の間隔で巨大な石が地面に突き刺さるように立っている。写真の角石は高さがおよそ4Mほどあり、百トンを遙かに越す巨石である。

壁は発掘後に修復しているが、使われている石は原初のものを使っている。

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  低所にある神殿

長方形のスイミングプールのような形をした広場が、地面より1.8M下に作られている。南側に石の階段があり、そこから遺跡の内部に降りられるようになっている。

床の長さは12M、幅が9Mで、周りの内壁は大きさの異なる精緻に切断された切石で積み上げられている。これはおそらく原初のままの状態のようだ。

広場の中央部に赤い岩の大きな柱が立っている。この柱にアンデス地方の伝説に頻繁に登場する、アンデスに文明をもたらした「ビラコチャ」と思われる像が掘られている。

彫られた人物像の詳細は、摩耗が激しくてはっきりとは分からない。ただ真っ直ぐのびた鼻柱とあご髭が特徴的だ。

流れるようなローブ(長衣)をまとったその姿は、メキシコのオルメカ文明の遺跡「ラ・ベンタ」で見たケツァルコアトルを思い出す。(ホームページ、メキシコ・オルメカ編を参照)

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  人の顔の像

「低所にある神殿」の内壁には、180個もの人頭像が飾られている。不思議なことにこれらの顔に同一のものはないといわれている。

それぞれの顔は、世界の隅々の国の人の顔を表していると主張する人は、ここで世界の人々が集まる国際会議が開かれたのではないかと考えている。

風化が激しく、ほとんどの顔が識別し難くなっているが、判別し得る限りでは、それぞれの顔形が異なっていることが分かる。

現在世界の代表者が集まる会議や競技会では、参加国の国旗が掲げられるように、世界中の民族を代表する顔が飾られていたとしたら、ここが国際的な会議場であった可能性はある。

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 カラササヤの入り口 @

現在は出入りが禁止されているが、この東側のゲートがカラササヤへの正式な出入り口であったようだ。ゲートは巨石を使って荘厳な雰囲気を醸しだしている。

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  カラササヤの入り口 A

精緻に切り出した巨大な石材を使い、素晴らしい門構えを築いている。これは間違いなく先史文明の遺産である。

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bullet  太陽の門
カラササヤの西北の角に、その大きさと見事なレリーフで有名な「太陽の門」が建っている。オリジナルの位置から移動されたことははっきりしているが、元の位置については正確なことは分かっていない。

この門は、独立した一枚岩の安山岩で出来ており、高さ3M、幅4.75M、厚さ45センチで、重さはおよそ10トンと推定されている。

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bullet 「太陽の門」拡大図
門の上部中央には、ビラコチャを現したと思われる像が彫られている。不思議なことに、頬に涙を流し(写真では判読しがたい)、両手には矢の束みたいなものを握っている。

その両サイドの「カレンダー小壁」と呼ばれる部分には、8つの肖像が3段にわたって合計24個掘られている。同じような図形に見えるが、よく見ると少しずつ異なって描かれており、あるものは、鳥の仮面をかぶっているように見える。

カレンダー小壁の下側の、右側から3列目に注目していただきたい。そこには、象の頭と耳と鼻が彫刻されている。

これは非常に奇妙なことである。といのは、新大陸の何処にも象はいないからである。しかし、有史以前の太古の時代(1万2000年以上前)には、南米大陸にも像がいたことが分かっているのだ。

当時南米大陸に生存していた像の一種に「キュビエロニウス」と呼ばれる長鼻類で、牙と長い鼻を持つ像がいた。ここに描かれた象の姿はこれによく似ている。

したがって、太陽の門は、少なくとも今から1万2000年以上前に掘られたと考えざるを得なくなってくる。

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 カラササヤ中央部 @

広場のほぼ中央部に、石の祭壇のようなものが置かれていた。石材そのものはオリジナルのものと思われる。木内氏は、石の上に磁石を置いて、カラササヤ全体の方位を測定した。

その結果は約14度ほど真東より北側にずれていた。歳差運動の見地からこの測定結果を見ると、遺跡の建造年代はおよそ1万5000年ほど前となる。

 

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 A 

ラパス大学の故アーサー・ポスナンスキー教授とロルフ・ミュラー教授が黄道傾斜から計測したカラササヤの建造時期は、およそ1万7000年前となっている。

両教授は、1万2000年前頃の大カタスロフィーの発生によって、ティアワナコ全体の崩壊が起きたと述べている。

寄しくも、両教授の研究結果と木内氏の年代測定はほぼ同時代を示しており、1万5000年以上前に建造されたカラササヤ遺跡は、1万2000年から1万5000年の間に起きた大異変によって崩壊した点で一致をみている。

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  立像

広場の中には、沢山のモノトリート(立像)があったたらしいが、今は「ポンセの石造」と呼ばれる立像しか残されていない。

胸元に何か爆弾の起爆装置のようなものを抱えた立像は、不思議なことに大粒の涙を流している。

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  オリジナルの石材 

先史文明特有の刻みが入っている。

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  先史文明の遺構

見事な切り口の石がまったく隙間なく組み合わさっている。

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  アカパナ・ピラミッド

カラササヤのすぐ隣りに高さが15Mほどの小高い丘がそびえている。この丘は「アカパナ・ピラミッド」と呼ばれ、もともと丘の四方は直線で、階段状のピラミッドになっていたらしい。

しかし、現在はピラミッドの面影はない。スペイン征服後の数世紀の間に、建設業者の採石場と化してしまい、表面を覆っていた見事な巨石のほとんどが持ち去られてしまったからだ。

丘の上や中腹には、今も取り残された巨石が放置されている。(最後の写真参照)

その後、崩されたピラミッドの上には土が盛られ、今は野草の生い茂る、なんの変哲もない丘に変身しまっている。

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    ピラミッドを囲む水路

それにしてもこのピラミッド状の建造物は何の目的作られたものだろうか?

丘の周囲を回ってみると、先史文明独特のカッターナイフで切ったような切り口の石が、見事に組み込まれた石組みを見ることが出来る。

これらの遺構を見ると、ピラミッドの基底部周辺には、水路のようなものが造られていたようだ。貯水槽のようなものも残されている。

どうやらこの建造物は、水に関する一種の機械装置ではなかったと考えられる。

グラハムハンコックによると、建造物の最上段に大きな貯水装置があり、そこから流れ出した水は、次第に下の段に流れ、ピラミッドを囲む濠の中に流れ込み、最後は南側の土台のところに流れ込んでいたようだと述べている。

現に、丘の内部の奥深くには、複雑な網状になった見事な切石で造られた水路が発見されている。

ハンコックは、「この水路の建設には、細心の注意が払われ、優れた職人が辛抱強く厖大な時間をかけて造ったものだ」とも述べている。

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    放置された巨石

だとすると、アカパナ・ピラミッドは、何か重要な目的があって建設されたものであることは間違いない。

考古学者は、この水路は雨や川の信仰に関係し、水の力や奔流に対する原始的崇拝だと考えているようだが、私にはそのようなものだとはとうてい思えない。

何故なら、信仰的なものが目的だったら、精緻な装置を造る必要などないからだ。

内部の水路は、細部まで正確に角度がつけられ、接合部分のゆるみもわずかなものであったことを考えると、水圧を利用した特殊な水の浄化装置のようなものではなかったと思われる。

木内氏もこの考えに賛同してくれた。実は、彼が臨死体験中に見たある特殊な水の製造装置がこれによく似ていたからである。

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