B 上昇通路
アル・マムーンの掘削した通路を20メートルほど行くと、建造時に
造られた正式な上昇通路に出る。
幅、高さともに1メートルほどの通路で、登り勾配は26度。大人はかがまないと通れない。高度な技術力を持った建設者が、何故、こんな狭い通路しか造らなかったのだろうか?
通路の広さを二倍にすることなど彼等にとっては造作のないことのはずなのに。
C 女王の間
狭い上昇通路を39M程登ると、南に向かって水平な通路に出る。
この水平の通路も高さが1メートル強で、屈んだままで、更に49メートル進むと「女王の間」と呼ばれる部屋に入る。
部屋の広さは、南北5.68メートル 東西5.74メートルでほぼ正方形の部屋で、入って左手(東側)に、壁龕(へきがん)と呼ばれる写真にあるような階段状の窪みがある。これが何に使われたのかよく分かっていない。
天井は切り妻造りで三角天井になっており、高さ6.22メートルとかなり
高い。アル・マムーンがこの部屋を「女王の間」と名付けたのは、アラブ
では女性を埋葬する場合に三角天井の墓(男性は平らな屋根の墓)に
埋葬する習慣があったからである。
D 女王の間の通気孔
エジプト学者によって「通気孔」と呼ばれているシャフトの孔(穴)の口径は、王の間と女王の間の4本とも大体同じ大きさで、縦横20センチぐらいである。
「女王の間」の通気孔は、奇妙なことに設計者によって巧妙に隠され塞がれており、1872年にウエインマン・ディクソンによって発見されるまでその存在が知られていなかった。
発見された通気孔は、王の間のそれと違って、ピラミッドの外部に貫通していなかった。ピラミッドの建造者は、一体なぜ外部に通じない孔をわざわざ作り、しかもそれが人の目に触れないように口をふさぐなどということをする必要があった のだろうか?
1993年ドイツ人の技術者(ルドルフ・ガンテンブリンク)が最新鋭のリモ
コンのロボットを使って南側の通気孔を調べたところ、外壁までの途中
に金属が取り付けられた石灰岩のドアーで閉じられた部屋の存在が確認され、大きな反響を呼んだ。ここに通気孔建造の秘密が隠されているのかもしれない。
その後、エジプト考古庁が重い腰を上げて、いつこのドアーの先の存在を確認する作業にとりかかるか、世界中のエジプト学者や多くのピラミッドファンが固唾を飲んで見守っているところである。
E 大回廊
F 大回廊の天井
女王の間から水平通路を元に戻ると、更に上昇通路が上に延びているが、通路は、ここから突然46Mと高くなり、横幅も2M強になり、視界が開ける。
両壁は7段にわたって7センチ程づつ内側にせり出し、天井は1メートルほどの狭さになっている。
この大回廊はピラミッドの内部で最も不思議な所の一つで、巨大な空間をなしているが、内壁の巨石の接合部分は今日でもカミソリの刃一枚入る隙間もないまでに完璧に仕上げられており、ここに立っていると、何故か、何か大きな機械装置の中に居るような感じに襲われる。
G 「王の間」の入り口と通気孔(北の外壁に繋がっている)
上昇勾配26度の大回廊を46メートル登り終わると、再び水平通路が南に延びている。「控えの間」を通って王の間に入る。
部屋に入って正面(南側)の通気孔は、傾斜角45度で、オリオン座のベルトの三つの星を指し、北側の孔は32度28分の角度で北極星を指している。ただしそれぞれの孔が指す星は、地球の「歳差運動」(周期2万5900年)によって時代ごとに変わってくる。
H 王の間
「王の間」の広さは、幅5.25メートル 奥行き10.5メートル 高さ5.8メートルで、女王の間の2倍ほどの広さの長方形の部屋である。
壁面は、五つの段から構成されている。その天井は、50トンを越える
巨大な平板によって構成されている。
石灰岩で仕上げられた「女王の間」と違い、遠くアスワンから切り出した100個の花崗岩を積み上げて造られた内壁は、ここでも、各石と石の
間はカミソリの刃はおろか空気まで通さぬまでに,完璧に接合されている。
地上45メートルの高さの「王の間」に、これだけに巨石を持ち上げ、精緻に接合させ、4500年の歳月を経た今でも、その構造に歪み一つない技術力は、見方によっては、現在の人類が持つ最先端のそれを凌駕して
いると言えるのかもしれない。
しかし、大ピラミッド建造の時代が、人類が新石器時代の狩猟生活を
終えて、ようやく青銅器を使い始めた文明の揺籃期であることを考えると、頭の中が真っ白になり思考が停止してしまうようだ。
後日談であるが、日本へ帰って資料整理のため、旅行中のメモリーレ
コーダーを聞いてみると、ピラミッドの内部全体、特に、王の間の中では、ウオーンという異常に大きな唸りのような音が終始録音されていて、自分のメモリー用の声が、殆ど聞き取れないほどであった。
石室の中の反響音にしては、少し度を超しているようだ。一種のピラ
ミッドパワーだろうか。やはり、ピラミッドの内部は観光気分で気軽に入るような所では無いかもしれない。
現に、18世紀にナポレオンがエジプトに遠征した際、一人、王の間で
一夜明かした後、翌朝、青い顔をして震えながら出てきたが、何かひどく困惑するような出来事を体験してきたようだったと記録されている。
また、1964年エジプト国内を旅行中だった旧ソ連の首相フルシチョフは大ピラミッドの内部に入るのを、KGBに制止されているし、アメリカのルーズベルト大統領は第2次世界大戦中の1943年、エジプト滞在中、「王の間」の見学を自ら辞退したと言われている。
I 瞑想中の女性
J 謎の「空の石棺」
これが問題の石棺である。ピラミッドの建造後、王の間が何らかの目的のために使用され、上昇通路の閉鎖によって閉じられてから、数千年後の時を経て、この部屋に入った最初の人物はアル・マムーンだと思われる。
そのとき、王のミイラが発見されていたらピラミッドの謎の半分は氷解していたに違いない。しかし、そのときマムーンが見たものはネズミ一匹いない全くの空の空間であった。
写真で見るように、石棺の左手前が大きく削り取られている。これは、
マムーンが石棺の中身を確認しようとした際に、石棺が蓋(ふた)で密閉されており、こじ開けることが出来なかったため、上部の一角を破壊したことによって出来たものと思われる。
その為現在は、原型をとどめていないが、もともとの大きさは、縦2.27M横0.98M 高さ1.05Mであったことが、フリンダース・ペトリによって報告されている。
不思議なことに、外周の容積(2332.8リットル)は内側の(1166.4
リットル)のちょうど二倍に
なっている。偶然にしては出来過ぎているし、遊び心にしては度を超している。
それにしても、堅い花崗岩を内堀するだけでも驚異的な作業(宝石付きのドリルやノ
コギリで、1−2トンの圧力を掛けること)が要求されると
言うのに、内と外の容積比を正確に1:2にする技術力は、これ又大変なものである。
彼等は、あたかも現代人がバターナイフで、バターを切るようなに常識を越えた超能力的な技術力を持っていたとでもいうのだろうか。