ピラミッドとスフィンクス B

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ピラミッドとスフィンクス@
ピラミッドとスフィンクス A
ピラミッドとスフィンクス B
カイロからアブシンベルへ
アブシンベルからアスワンへ
カルナック神殿
ルクソール神殿
王家の谷 @
エジプト考古学博物館 @
エジプト考古学博物館 A

「三大ピラミッド」と「河岸神殿」

現地の絵葉書に写っているのと同じような三大ピラミッドを綺麗な角度で捉えた写真を、なんとしても撮りい衝動に駆られ、風邪でサハラ砂漠行きを断念しホテルで休んでいた午後、タクシーを呼んで三度目のギザ行きと相成った。

ところが、いざ着いてみると、探し求めているアングルは、ピラミッドが並ぶギザの台地から東南の砂漠の中にあることに気が付いた。 砂漠の中へは車では行けない。それも砂漠のかなり奥まで行か
ないと、目指すアングルの場所に到達しそうもない。
 
さてどうしようかと思いあぐねていると、タクシーの運転手がキャメル、キャメルとさかんに言うので、そうだラクダで行けば良いんだと気付いて、「ラクダ引き」のたむろする一角へ案内してもらう。

さて、次は、値段の交渉だ。所要時間は、往復と写真撮影の時間を合わせて2時間ほどかかると言うことで、先方が提示した値段が100ドル。100ドルといえば、エジプトでは事実上10万円相当の
とんでもないほどの高額である。ふっかけもいいところだ。10ドルから交渉を始めて、結局30ドルで妥結。少々相場より高そうだが時間もないので、そのへんで手を打つことにした。

自称15歳の少年(実際は12,13歳ぐらいか)とラクダの背に揺られて砂漠を目指してスタート。

風邪による熱のためか、砂漠を吹く心地よい風邪も少々寒く感じる。それでも、ギザ台地に建ち並ぶ憧れの三大ピラミッドを一望に収めながら、ラクダ独特の揺れ心地に身を委ねて、ゆるりゆるいと砂漠を行く気分は、なんとも心地よいものである。今回のエジプト旅行で一番の思い出になりそうだ。

登り道の為もあって、40分ほどかかってようやく目的のアングルの地に到着。三大ピラミッドが綺麗に収まる景色に、しばらくの間、見惚れるてしまう。
  
夕日が落ち始めたので、急いでデジカメの撮影を始める。画素数を変えながら何枚かを撮る内にあっと いう間に1時間ほどが過ぎてしまった。

 

   
    写真説明

  写真をクリックすると拡大版がみられます。戻るときには、プラウザ
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  @ 三大ピラミッドを西南の台地から眺める

写真左側から第一、第二、第三ピラミッド。この角度からだと三基のピラミッドをワンフォットに納めるのは難しい。    


A 砂漠を行く駱駝

砂漠の中の移動は、馬かラクダに頼ることになるが、やはり砂漠には、ラクダが似合う。                  




B 自称15歳のラクダ曳きの男の子

英語はけっこう上手にしゃべる。彼の得意とする日本語は、誰が教えたのか、「山本山」と「ジャンボ尾崎」。
帰り道、ラクダの背に揺られながら、「阪神は強い!」を繰り返し教えてきた。次にこの少年の客人となった日本人は、きっと、驚いてラクダ から落ちるに違いない。
 

C 三大ピラミッド

三基のピラミッドを、念願の「絵ハガキ」並みのアングルで撮影できた。出来映えは、絵ハガキにはほど遠い。
綺麗な写真を撮ろうと思ったら、太陽が東側(手前)にある午前中の方 がよい。

D ラクダと私

 

E 河岸神殿入り口

ここでも200トン近い巨石が使われており、どうやってこんな重いものを持ち上げ、並べていくことが出来たのか正統派のエジプト学者に教えてほしいものだ。

 

 


F 河岸神殿内部

内部は巨大な柱によって幾何学的な美しさをかもし出しているが、長方形の柱や内壁は味も素っ気もない裸のままで、なんの装飾も施されておらず、カルナックやルクソールの神殿のように円柱に色鮮やかな彫刻が彫られている神殿とは景観を異にしている。

G 神殿の内壁

石組みされた当初の石灰岩は風化しており、ある時期に大々的な補修工事が行われ、風化した原石を新しい花崗岩が覆っているのがよく分かる。(石灰岩はスフィンクスを彫った時のもので、薄い花崗岩はアスワンから掘り出してきたものである)

実は、ここに河岸神殿とスフィンクスの建造時期を探るヒントが隠されている。
というのは、大スフィンクスはカフラー王より前のクフ王の治世には既に存在しており、砂に埋もれたスフィンクスと河岸神殿を掘り起こし、風化した内外壁を真新しい石灰岩で覆う改装工事を行ったのが、カフラー王だと思われる記録が「インベントリー石碑」と呼ばれる石碑に残っているからである。

だとすると、スフィンクスと河岸神殿の建造の時期はクフ王やカフラー王の時代より遙かに古い時代ということになってくる。何故なら、最初 の神殿の石灰岩が写真に見られるように、劣化し風化するのには、数千年の歳月が必要であるからである。

現に、ギザ周辺に住む村人たちに伝わる伝承も、大スフィンクスはカフラー王より少なくとも5000年は古いという。

しかしながら、「インベントリー石碑」に書かれている内容は、正確なものではないというのが、エジプト学者の大方の意見である。何故なら、石碑に刻まれた内容を正しいものと認めてしますと、ピラミッドやスフィンクスの建造の時期が数千年もさかのぼることになり、彼等が唱える古代エジプトの年代譜が根底から覆されることになるからである。

H スフィンクス像の後方の壁

雨水による浸食の後と思われる縦縞の溝が鮮明に見られる。

Gで述べた、「インベントリー石碑」の記載内容を地質学的見地から裏付ける研究者が現れた。アメリカの新進の地質学者であるロバート・ショック博士である。

ショック博士は、スフィンクスや河岸神殿の壁に刻まれた縦縞の溝に着目し、この溝は長期間にわたる大量の雨水による浸食作用によって出来たものだと断定し、その建造時期をB・C8000年からB・C10000年位前までさかのぼるべきだと主張している。

ギザ台地をはじめエジプトの地に雨期があったのは、B・C10000年からB・C5000年頃だということが古代気象学で、ほぼはっきりしており、従って、スフィンクスや周りの壁面に刻まれた1メートルから2メートルに達する溝の深さから推定すると、建造の時期は少なくともB・C8000年より以前でなければならないというのが、博士の考えである。

 
I カイロのホテルからのナイル川展望

 

 

  

    

  

@三大p(西南の台地からの展望).jpg (20986 バイト)
                         

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E河岸神殿入り口.jpg (40267 バイト)

 

F河岸神殿の内部.jpg (36240 バイト)

G河岸神殿の内壁.jpg (36673 バイト)

 

 

 

 

 

 

 

 

Hスフィンクスの後方の壁.jpg (39191 バイト)

 

 

 

 



Iカイロのホテルからのナイル川展望.jpg (31580 バイト)