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 チチェンイッツァ(A・C300−A・C1250)

いよいよ今日は、 チチェンイッツァの遺跡とククルカンのピラミッドにおける光と陰が織りなす「秋分の日の奇跡」を目にすることが出きる。気になるのは天気だ。早めの起き、外に出て様子を見る。ちょうど太陽がカリブの海に昇ってくるところだ。海面すれすれに浮かぶ雲に隠れて、日の出時間(6時20分頃)を過ぎてもなかなか太陽が顔を出さない。しかし、そのお陰で、雲が朝日に照らされてカリブの海に浮かぶ素晴らしい「朝焼け」を眺めることが出来た。

 11:00バスでホテルを出発して、 チチェンイッツァに向かう。しばらく海岸沿いを走る間、真っ白い砂浜と紺碧のカリブ海を眺めながらおよそ2時間、途中、マヤ系のかわいこちゃんが踊るユカタン半島の伝統的な舞踊を見ながら昼食をとるが、私にとっては昼食などもうどうでも良い感じ。気持ちだけは早くも遺跡の前に飛んでいっている。

 チチェン・イツァは、ユカタン半島の北部部の平原に位置し、ユカタン半島のマヤ遺跡の中で、最も壮大で華麗な遺跡である。周囲6キロメートル四方の地域に遺跡が散在しており、850年頃にメキシコ湾沿岸地方からこの地に入ってきたと思われるマヤ系イツァ人がその繁栄に重要な役割をはたしている。

 彼らはトルテカ(アステカ文明の前に栄えた)的文化要素をもっており、在来のユカタン半島北部のマヤの人々の伝統と融合して新たな様式、文化を生み出していった。こうしてチチェン・イツァは、ユカタン半島北部の中心地として栄えたのである。近年の資料から チチェンイッツァの全盛期は9世紀後半から10世紀ごろと考えられている。

 チチェン・イツァとは「イツァの泉の湧くところ」という意味である。チチェン・イツァにはセノーテとよばれる泉が2カ所あり、そのうちのひとつは、直径約60m、水面までの距離が約20mもある「生け賛の泉」と呼ばれる有名な泉である。 

 ユカタン半島北部には、地表を流れる河川がないため、地下水が湧き出す「セノーテ」は、この地方に住む人々にとっては最も重要な地であった。それ故、古くからセノーテに「生け贄」を捧げる習わしがあり、「生け贄の泉」はその代表的な泉であるが、その名の示す通り、この泉には、水の枯れぬことを願って多くの生け贄が投げ込まれたことが、近年、エリック・トンプソンらの発掘によって明らかになっている。

 チチェンイッツァの入り口をしばらく進むと、木々の間からククルカンのピラミッドが見えてくる。正四角垂のきれいなピラミッドだ。ただピラミッドといっても、エジプトのそれと違って頂上部分は平らになっていて、その上に神殿が建っている。メソアメリカのピラミッドは基本的にすべてこの形をとっている。

 時計の針は既に3時半を過ぎている。ということは「秋分の日の奇跡」は既に始まっているはずだ。事前に調べた限りでは、この奇跡は3時過ぎに始まって3時間20分ほどで完了することになっていた。しかし空は一面雲に覆われて太陽は顔を出す気配がない。これではしばらくの間、光と陰のショーを目にすることは出来そうもない。

 そこで覚悟を決めて、広大な原野に点在する遺跡を見て回ることにした。 チチェンイッツァは、新しい遺跡「新 チチェンイッツァ」と古い遺跡「旧 チチェンイッツァ」とが数百メートルほど場所を隔てて共存している。ククルカンのピラミッドや戦士の神殿、大球技場があるところは、比較的新しい時代、「後古典期」前期の後900年ー後1200年頃の「新 チチェンイッツァ」遺跡である。

 鬱蒼と茂ったジャングルの中を少し歩くと、それよりも古い、「古典期」後期の後600年ー後800年頃の建造物が点在する「旧 チチェンイッツァ」のエリアに着く。「新チチェンイッツァ」の遺跡に比べると、建造物の破損状況が大分進んでいる感じがする。

 しばらく行くと、何度も写真で見たあのカラコルが目に飛び込んできた。これこそがマヤの天文台である。数段の基壇とその上に建てられたドーム状の天文観測施設は保存状態が良く、東と北側は一部崩れ落ちているものの、ほぼ原型を留めていた。当時は、神官しか中に入ることが出来なかった内部は、らせん状の階段が上にのびており、その構造からカラコル(カタツムリ)と呼ばれている。

 天文台の台座(基壇)は、真西から27.5度北に向いており、この方向は、金星が最も北に沈む方向である。また天体観測のドームには、観測用の3つの窓が残っている。南向きには真南を向く窓、西南方向には、月没の最北線を向く窓、西向きには、春分・秋分の日没と月没の最北線を正確に確認でくる窓が造られている。

 ここでマヤの神官や天文学者は、太陽や金星の動きを、おそらく肉眼で、正確に観測しつづけたのであろう。マヤ民族の宇宙や天文学についての知識と、そこから導き出された正確な暦については、古くから大きな謎とされてきているが、それについては詳細レポート「マヤの数学、暦、天文学」でふれることにする。

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 カリブ海の朝焼け

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 ホテルの前のベランダ

カンクンは平均気温が34度前後あり、結構蒸し暑い。定年を終えたアメリカ人を対象にした避暑地というより、避寒地のリゾート地として賑わっている。

そのためホテルや街で見かける人はほとんどがアメリカ人だ。

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  マヤ系のお嬢さんと

チチェンイッツァへ行く途中のレストランでマヤ族の踊りを見せてくれたお嬢さんと一緒の記念写真。

この娘の顔は相当混血の進んだ顔だ。マヤ族直系の顔は、もっと細長く額が平らだ。

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 チチェンイッツァ遺跡の入り口

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 ククルカンのピラミッド(カスティーヨとも呼ぶ)

遺跡に着いたときは、写真(上)の空のようにどんより曇っていて、とても日の射す雰囲気ではなかったが、4時過ぎにはすっかり雲が消て、素晴らしい天気になってくれた。

ククルカンのピラミッドは、高さ24メートル、底辺が1辺59メール、9層からなる階段状のピラミッドで、頂上には神殿がある。このピラミッドはカスティーヨ(城塞)とも呼ばれ、全体が暦として設計されている。

ピラミッドの各面には91段の階段があり、4面を合わせると全部で364段になり、それに神殿の1段を加えるた365段は、太陽暦の1年の日数に相当する。

マヤの太陽暦は1ヶ月が20日で、18ヶ月から成り立っており、それに「不吉な日」とされる5日を加えて365日となっている。しかし、何故、加算される5日が不吉な日なのかについては、どの学者も納得のいく答えを持ち合わせていない。

ところが、不思議なことに、エジプトにおいても、古王国時代までは、一年を360日としていたふしがあり、365日制を使うようになった中王国時代以後も、、しばらくの間、360日目を年の終わりとして祝い、「不吉な余りの日」として5日を加えていたことが「カノプス告示」に記されている。

南米ペルーでも、1年は12キラ(月)、1ヶ月が30日に分割されており、年末に、アルカカンと呼ばれる特別の5日が追加されている。

古代中国では、堯の時代に大艱難が起き、太陽が何日間も沈まない日がつづいた。その後、暦と実際の季節との間にズレが生じ、堯帝は天文学者に命じて、四季の長さを計り直し、新しい暦を作らせたことが、中国最古の書、「書経」に記録されている。

これらの伝承や歴史的事実とをあわせて考えると、1年の長さは太古の時代から365日と一定していたわけではなく、過去のある時、宇宙的規模の一大異変が発生し、そのため、太陽を回る地球の軌道にも変化が生じ、公転周期がそれ以前に比べて5日間ほど長くなったのではないかと思われる。

そして、その時の一大異変は、当然地球上にも世界的規模の大災害をもたらすところとなった。それ故、その後の時代を生きる人々にとって、360日に追加されることになった5日間は、先史文明を崩壊へと導いた忌まわしい記憶を想起させる日として、不吉な日」と呼ばれるようになったのではなかろうかいうのが、私の仮説である。          

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kukurukan10.jpg (22947 バイト) bullet 戦士の神殿
3層の基壇を持つ神殿の周辺を、戦士の浮き彫りが施された石柱群が囲み「千本柱の神殿」とも呼ばれている。

写真(上)は、カスティーヨ(ククルカンのピラミッド)から眺めた景色であるが、現在カスティーヨには登れないのでこの写真は、『マヤ』(日本語版)から転写させてもらった。

神殿の急な階段を上りきったところにチャック・モール像が横臥し、後方には蛇の柱が立ち並んでいる。 写真(下)

半分横たわり、半分座った状態で虚空を見つめるチャック・モールが腹の辺りに支えている皿は、生け贄がまだ生きているときに切り取られた心臓を置くところだ。

このような残酷で野蛮な儀式が取り入れられたのは、トルテカ民族の影響によるものといわれているが、生け贄の儀式はトルテカ文明、アステカ文明と時代が経過するにしたがって,中毒化し、大量の生け贄を求めるようになっていった。

16世紀初め、アステカ帝国では、生け贄の犠牲者はさらに増え、その数は毎年25万人にのぼったといわれており、テノチティトランの神殿の階段は、したたり落ちた生け贄の犠牲者の血で、今も朱色に染まっているほどである。

戦士の神殿にも階段の損傷が激しく、今は登れなくなっている。

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 メルカード(市場)の千本柱

      往時は木あるいは草葺きの屋根で覆われていたと思われる。

 

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 大球技場

ほとんどの都市型遺跡には、「フェゴ・デ・ペロタ」と呼ばれる、バスケットボールとテニスとを合わせたような競技が行われた球技場が、付属施設として残っているが、チチェンイッツァの球技場はその中でも最大級のものである。 写真(上)
                                 

球技は、高さが8メートルほどの石壁に囲まれた、長さ146メートル、幅36メートルの球技場の中で行われた。両サイドの石壁の中央部に球を通したと思われる石の輪が取り付けられている。 写真(中) 

                                
マヤ人の球技は、娯楽ではなく、神への祈りを捧げる宗教儀式であった。そのため、球技に勝ったチームの主将は、大変な名誉を獲て、首を切られ、神への供え物となったといわれている。(敗れたチームの主将の首が切られたという説もある)

その様子を彫ったレリーフが今も、内壁の基壇部分に残されている。レリーフ右サイドの神官と思われる人物によって首が切り落とされ、切り口から飛び散る血が6匹の蛇の姿で描かれている。 写真(下)                                                

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 「ジャガーと鷲の基壇」の浮き彫り


     心臓をつかむ鷲(右)とジャガー(左)

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 カラコル(天文台)

チチェンイッツァのカラコルが天文観測をおこなうための施設であったろうことは、確たる資料はないものの、多くの研究者が認めるとこととなっている。

マヤの遺跡には、これ以外にも幾つか天文観測をかねていたであろうと考えられる遺跡が発見されており、複雑なカレンダーシステムの運用と天体観測は、マヤの神官たちにとって最重要の任務であった。

マヤ人の天文学の知識と天体観測の技術にはただただ驚かされる。その代表的なものが、地球の公転周期(太陽の周りを1周する日数)と金星との会合周期である。

現代の最先端の観測装置による地球の公転周期365.2422日であるが、先進国と呼ばれるヨーロッパにおいて、16世紀後半1582年)まで使われていた「ユリウス暦」ではその365.25日としており、その誤差は、0.0078日であった。

一方、16世紀より遙かに昔、その起源が未だにどこまでさかのぼるか不明なほど遠い過去の「マヤの暦」では、地球が太陽を一周する日数を365.2420日としており、その誤差はわずか 0.0002日しかなかった。

因みに、1582年に法王グレゴリウス13世の命によって当時の科学知識を総動員して作られた「グレコリオ暦」(現在我々が使っている暦)では365.2425日となっており、その誤差は、0.0003日である。

また、マヤ人は金星との「会合周期」(太陽に対して、金星と地球が同じ位置になるまでの年数)についても、583.92にという精密な数値を認識していた。この数値は、6000年でわずか1日しか誤差が生じないという驚異的な数値であった。

マヤ人のカレンダー・システムにはいまだ解明されない幾つかの大きな謎があり、マヤ文明の起源を探る上で、興味ある説が提唱されている。その中の一つに「マヤ=宇宙人起源説」もある。

この項の詳細は、メキシコ探索「レポート編」をお読み下さい。

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