パレンケ遺跡

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パレンケ遺跡(AC400−AC800)

 パレンケはマヤ低地で最も西に位置するセンターのひとつである。神話的過去としてはパレンケは紀元前1000年頃に始まるとされているが、遺跡から確認できるパレンケ王朝の開始は紀元後431年、バラム・ククの即位に始まるようだ。

 バスを降りて遺跡までしばらくジャングルの中を歩く。明るい色をしたオウムやコンゴウインコが木々の間を飛び交っている。映画「ターミネーター」や「ターザン」のロケ地だけあって熱帯雨林の高い木々が鬱そうと生い茂っている。

 薄暗いジャングルを抜けると、左側にパカル王の墓で有名な「碑銘の神殿」が見えてきた。パカル王は、615年わずか12歳で即位し、68年年間に渡ってパレンケを支配したとされている。パカル王の時代がパレンケ王朝の最も繁栄した時代であったようで、遺跡の大半がパカルとその息子の手によるものとされている。

 パレンケ遺跡の見所は、碑銘の神殿の地下に造られていたパカル王の墓と石棺のふた、それに石棺の中から出てきた翡翠などの遺物である。地下室に入るには、ピラミッドを登り、その上にある神殿の中から延びる急な階段を降りていかなければならない。しかし残念ながら我々が訪れたときは、ピラミッドは修理中で登ることが禁止されており、見学が出来なかった。

 碑銘の神殿のはす向かいには「宮殿」があり、真ん中当たりに、天体観測に使用していたと思われる4階建ての塔が見える。小さな橋を渡ってさらに進むと、広場に出る。広場を取り囲むようにパカル王の息子チャン・バールム王によって建造された「十字の神殿」、「葉の十字の神殿」「太陽の神殿」が建っている。

 この夜の宿泊は、パレンケ遺跡に隣接したミシオン・パーク・プラザ。ジャングルを切り開いた一角にあるコテージ風の建物だ。移動時間が少ない分早めに着いたため、プールで泳ぐ時間があった。しばらく泳いでいると、南国特有のスコールがやってきた。ジャングルを吹き抜ける風が涼しくなって気持ちがいい。

 この夜は、食卓に「冷やしソーメン」が出た。添乗員の芳野さんの粋な計らいだ。聞くところでは、日本からもってきたソーメンを自らゆでてくれたのだという。確かにこのゆで加減は現地の人には出来るはずがない。スコールに打たれるジャングルの夕景色を眺めながら食べるソーメンの味は格別であった。

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 碑銘の神殿

1952年、メキシコの考古学者アルベルト・ルスは神殿の床の敷石をめくったところ、地下に通じる階段が現れた。意図的に埋めたと思われる瓦礫を3年がかりで掘り出したルスは、殉死者と思われる数体の遺体が横たわる部屋の先に、畳10畳敷きもあろうと思われる巨大な憤室にたどり着いた。

そこには、そこには横2メートル縦4メートルほどの石棺があり、中には翡翠の仮面をつけた王と思われる人物の遺体とともに、数々の副葬品が埋葬されていた。

発見された遺体はパレンケ王朝第11代のパカル王とされているが、パカル王は、687年に80歳でなくなったとされており、遺体の推定死亡年齢が40歳前後であることと矛盾している。

また、碑銘には、石棺に埋葬された人物は「ハラチ・ウィニク(真実の人)」としか記されておらず、パカル王の名は一切示されていない。また、不思議なことに、王であることを示す冠や正装したときに身につける装飾品の類はまったく発見されていない。

「ハラチ・ウィニク(真実の人)」という文字から推測される埋葬者は、考古学者が説くパカル王ではなく、彼らの王朝に関わりのあった「特別の人物」であった可能性が強い。

この項についての詳細は、詳細レポート「地下王墓発見の経緯」,  「遺体は誰のもの?」をご覧下さい。

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 石棺の蓋

重さが5トンもある長方形の蓋の表側には、埋葬者と思われる人物がマヤ文字や意味不明の文様と一緒に彫刻されているが、これがまた何とも奇妙な絵なのである。

読者はこの絵を見られて何を想像されるだろうか?

専門家は、「男の魂が死の領域に移行するところ」とか、「地上の怪物の肉のない口の中に背中から倒れ込むところ」と言っているが、私には納得感がない。

彫られた人物は、前向きにかがんだ姿勢で何か操縦桿のようなものを操作しているように見える。また男の周りに描かれた複雑な絵模様は、どう見ても何か機械類のようにしか見えない。後方からはロケット噴射の時に出る炎のようなものが噴出している。

この石棺の拓本(写し取った絵図)を見たNASAの宇宙ロケット設計者は、何の予備知識もなかったためか、あっさりと「ああ、アポロの発射シーンを図案化したんだね」と語ったと伝えられている。

当時、ロケットの技術があったはずはないし、いくら何でも素足のロケット操縦者はいないだろうから、直接的に宇宙ロケットとの関わりはないにしても、40歳で没した謎の人物が特別な人物であったことを併せて考えると、意味深な絵であることだけは確かである。

詳細は探索レポート「石棺の謎」に記載。



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 ヒスイの仮面

古代では最高の宝石とされていたヒスイで出来た仮面は、埋葬者の遺体の上に置かれていたと考えられているが、発見当時はバラバラになっていた。

その後復元されて、メキシコシティーの人類学博物館のマヤ室に飾られていた時価数百億と言われている「ヒスイの仮面」は、1985年12月24日のクリスマス.イブの夜、エントツならぬ通気孔から進入した「黒いサンタクロース」のドロポーによって、「アステカ黒曜石の壷」(34億円)や「オアハカのマスク」等とともに盗まれ、メキシコ中が大騒ぎになった。

しかし、4年半ほどして、犯人は呆気なく捕まった。警察官が何気なく尋問した挙動不審者の自宅ガレージから、盗まれた秘宝が発見されたのである。いくつかの宝石類は海外で売られたらしいが、さすがに有名な秘宝は持ち出すことが出来なかったとみえ、無事であった。

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 宮殿

パレンケ遺跡の中心部にあり、高さ10メートルの基壇の上に建てられている。王や貴族のような身分の高い人の住まいであったと考えられていることから「宮殿」と名付けられている。

最初7世紀に建てられた後、何度か増築されているため全体の構造は複雑になっている。宮殿内には深さ3メートルの水路が引かれ、水洗トイレやスティームバスの跡も残されている。

宮殿の最大の特徴は、マヤ建築でも他に例のない高さ15メートルの4階建ての塔である。塔の壁面は東西南北を指していることから、天体観測に利用されたと推定され、「天体観測塔」と呼ばれている。

塔の踊り場のひとつには金星を表す絵文字があり、最上階には、星の観測に使ったと思われるテーブルも残されていた。

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 十字の神殿

内部パネルの中央に十字架の図が見られることから、この名がついた。現在パネルは国立人類博物館に移されている。

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 太陽の神殿

神殿奥の壁に飾られていた石版には、太陽神の楯、その両脇にはパカル王とその後継者チャン・バールム王あらわされている。

また、146の文字で西暦紀元前2360年の神の誕生からバールム王の即位に至るまでの歴史が刻まれており、パレンケ王朝の始まりが紀元前2360年であることを示している。

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 「葉の十字の神殿」
から望む
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 碑銘の神殿と宮殿

「十字の神殿」から望んだ「碑銘の神殿」と「宮殿」

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