ソチカルコ遺跡

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 遺跡の所在地 

 遺跡探索の旅のスタートに先立って、主要都市と遺跡の配置図を掲載しておく。、各遺跡の探索時ごとに、それが
どのエリアにあるか確認する上でご利用いただきたい。 拡大図をご覧になられたいときは、各ページ左側のバーナー
「メソアメリカ遺跡地図」をクリックして下さい。

 今回の探索のコースは、次のようなっているので、おおよそ頭に入れておかれると分かりやすいと思います。

 メキシコシティー近郊の「ショチカルコ」遺跡 → ユカタン半島北端の「トゥルム」遺跡 → 「チチェンイッツァ」遺跡 → 「ウシュマル」遺跡;「カバー」遺跡 → メキシコ湾沿いに下って「ラ・ベンタ」遺跡:「パレンケ」遺跡 → 「モンテ・アルバン」遺跡:「ミトラ」遺跡 → 「テノチティトラン」遺跡:「テオティワカン」遺跡

古代メソアメリカ遺跡地図(全体図)

 

 メソアメリカ文明の概要

 今回探索する主要な遺跡はマヤ、オルメカ、アステカなどのメソアメリカ文明が残した都市遺跡であるが、これらはメキシコの北部からグアテマラ、ベリーズ、エルサルドバドル、ホンジュラスの中央部までにわたる「メソアメリカ」と呼ばれる中央アメリカのほぼ全域にわたって点在している。

 トウモロコシの本格的栽培が炭素14測定法によって紀元前8000年ごろから始まったと見られる点などからして、メソアメリカ文明の源流はそれより更にさかのぼるものと考えられるが、エジプト文明と同様に紀元前3000年頃までは粗末な土器しか発見されていない。ところが紀元前2000年頃になると、メソアメリカ最初のオルメカ文明が興り、突然、大規模な祭祀センターが造営され始める。

 しかし、オルメカ文明の発祥の地とされるメキシコ湾岸沿いの「サン・ロレンソ」や「ラ・ベンタ」で発掘された遺跡からは、後述するように、メソアメリカ最初の文明といわれるオルメカでさえ、遠い過去の文明を引き継いだとしか思えない、不思議な遺物が発見されている。

 いずれにしろ、オルメカ文明以降、原住民インディヘナがスペイン人に征服されるまでの3500年間、この地において、オルメカ、マヤ、アステカの他、サポテカ、テオティワカンなどの様々な民族によって、各時代、各地域ごとに異なった文明が盛衰を繰り返してきたのである。

 また、最近の研究によると、その間に存在したそれぞれの社会や文明は孤立していたわけではなく、大陸内部を結ぶ長距離交易ルートやユカタン半島を一周する環ユカタン半島交易ルートなどを通じて相互に幅広い交流を行っていたようで、そのことは、メソアメリカ全体が一つの大きな文明圏であったことをうかがわせている。

 その中で、オルメカ文明はメキシコ中央部のメキシコ湾沿岸が主要なエリアであったようで、先述したように、その地域から「ラ・ベンタ」や「サン・ロレンソ」といったメソアメリカ最古の都市遺跡が発見されている。他方、アステカ文明は紀元後1200年以降の比較的近年の文明で、現在のメキシコシティーに当たる「テノチティトラン」を中心とした地域にメソアメリカ最後の文明を築いている。

 このようにメソアメリカ三大文明の二つの文明エリアはほぼ限定されているが、マヤ文明は存在期間が最も長期にわたると同時に、点在したエリアも広範な地域にわたっており、その間に多くの栄枯盛衰を繰り返し、時には民族ごと忽然と消えたが如くに栄華を誇った一大都市を後にしていることから、古くから謎の民族として多くの人々の関心を呼んできているところである。

 マヤ文明というと、グアテマラの「ティカル遺跡」に代表されるように、人をよせつけない熱帯雨林の中に盛衰した、ピラミッド型神殿を有する古代都市文明というイメージで語られることが多いが、彼らの都市は熱帯雨林地帯に限られていたわけではなく、太平洋沿岸の標高2000メートルから4000メートルの高地や、ユカタン半島北部を中心とした低地サバンナ地帯までの広範な地域に散在しており、自然環境やそこに生きる動植物においても多様性をもった状況下で発展した文明であることが、最近の研究で明らかになってきている。

 各文明の時代区分を概略見てみると、メソアメリカ文明の中では、メキシコ湾沿岸に栄えたオルメカ文明が最も古い文明とされており、考古学者が説くところの定説とされている年代区分でいうならば、紀元前2000年頃から前300年ごろとされている。一方マヤ文明は、オルメカ文明の発生に遅れること数百年、紀元前1500年ごろグアテマラ南部太平洋沿岸の高地のカミナルフユ遺跡近辺に発生したとされている。しかし学者の中には、グアテマラ北部の熱帯雨林のエル・ミラドールあたりをマヤ文明の源流と考えている人々もおり、その起源は今日でもいぜんとしてはっきりしておらず、謎に包まれたままの状態が続いている。

 18世紀以降、長い間、メソアメリカ文明の研究者の間で、マヤ文明こそが最古の文明だという考えが定着していたため、メキシコ湾沿岸沿いの「サン・ロレンソ」(B・C2000年−B・C900年)や「ラ・ベンタ」(BC1000年−BC300年)からマヤ文明以前の遺跡が発見されたとき、マヤ文明研究者の多くは、その時代考証をなかなか認めたがらなかったほどである。

 しかしながら、今日では、オルメク文明がマヤ文明に先立つものであることは多くの研究者の一致して認めているところで、マヤをはじめとした多くのメソアメリカ文明の母なる文明としてのオルメク文明の存在が定着した感がある。

 とはいうものの、メソアメリカ一帯に残されたマヤ遺跡の現在までの発掘率は、わずか5%に過ぎず、残された95%の遺跡の発掘が進むにつれて、定説化している時代区分は一気に逆転する可能性も残されており、各文明の正確な時代確定までにはまだまだ相当の年数が必要とされるようである。

 いずれにしろ、マヤ文明はユカタン半島北部に栄えた「マヤパン」文明( チチェンイッツァ衰退期にその近くに栄えた紀元後1250年ー後1500年ごろの文明)の衰退をもって、およそ3000年間にわたる特異な文明の事実上の終焉を迎えることとなる。それは、まさにメキシコがスペインの侵略にさらされる直前の1500年頃のことであった。

 一方、マヤ文明がその終焉期を迎えようとしている1200年頃にメキシコ中央高原に移り住み、現在のメキシコシティーに当たる場所に「テノチティトラン」を建設したのがアステカ文明であった。アステカ文明は南米のインカ文明と同様大変に古い時代の文明と錯覚されがちであるが、時代的にはわずか数百年以前の比較的新しい文明なのである。

 このアステカ文明もテノチティトランに一大都市センターを建造し、1400年代に最盛期を迎えてメソアメリカ各地の文明に大きな影響を与えるほどの隆盛を誇ったものの、1519年スペイン人による首都侵入によって、その後わずか3年後の1521年には300年の短い文明の終焉を迎えるところとなるのである。

 なお、メソアメリカ古代文明の研究者は、メソアメリカ史を「先古典期」(紀元前2000年ー紀元後250年)、「古典期」(紀元後250年ー900年)、「後古典期」(900年ー1500年)に分類し、それぞれの期間内を更に前期、後期、中期、末期などに区分している。


ショチカルコ遺跡

 旅の第二日目はメキシコシティー近郊のショチカルコ遺跡の探索である。

 ショチカルコ(ソチカルコ)遺跡に向かう前に「カテドナル教会」に立ち寄る。この教会はメキシコを征服したスペイン人コルテスの命令で建造されたメキシコでも最古の部類に入る教会であるが、その内部の壁面には、我が国とも縁のある豊臣秀吉によって処刑された宣教師と日本26聖人の殉教のフレスコ画が残されている。

 ショチカルコ(Xochicalco)遺跡は、メキシコシティーから南西80キロほどに位置した小高い丘の上にある。ショチカルコとは「花々の館」、「花の家のある土地」といった意味で、今でも周りのは原色のきれいな花々が咲いている。ショチカルコは650年ー1000年頃、テオティワカン、サポテカ、マヤ文明が融合し、当時の一大文化センターとして栄えたマヤ系の都市とされている。

 ショチカルコからの帰りに、「銀の町」と呼ばれるタスコ(Taxco)に立ち寄る。この町はスペイン人の侵略以前は先住民の住む集落であったが、1524年以来に銀の出る町として知られ、1743年フランス人タスコによって大鉱脈が発見されると、伝説的なシルバーラッシュが始まり一大都市となった。その後、銀鉱脈が枯れると、町は衰退し寂れたが、現在は銀細工の町として18世紀のコロニアル風の建物が建ち並ぶ簡素な観光地としてにぎわっている。

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 カテドナル

征服者スペイン人にとって、植民地支配に欠かせなかったことは、先住民インディヘナをクリスチャンに改宗させることであった。

そのため、16世紀にはフランシスコ会やドミニコ会などの修道院が相次いで建てられ、その数は17世紀を迎える頃には300を数えたという。

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カテドラルの中庭

当時の修道院の特徴は、屋外で宗教儀式を執り行うインディヘナの習慣に則って、礼拝堂が広い前面に面して開放的に設けられたことである。確かに中庭は清楚で美しく感じられた。

当初はインディヘナの反乱が相次いだため、中庭を取り囲むように高さ5メートルもの塀をめぐらした堅牢な構えになっている。

それにしても、ここに集められたインディヘナの老若男女たちは、どんな思いで宣教師の説教を聞かされ、キリスト教徒へと導かれていったのか考えると、胸が熱くなってくる。

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 ショチカルコ(ソチカルコ)遺跡

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ケツァルコアトル(羽毛のある蛇)の神殿

神殿の基壇四方には口を開けた蛇やマヤの神官の姿が彫られており保存状態はきわめて良い。メキシコシティー中央高原にこうしたマヤ様式の彫刻が残っているのは珍しく、テオティワカンを滅ぼしたのは、このショチカルコに集結したマヤ系ムステカ人を中心とした連合勢力ではないかとする説もある。

暦や日付も幾つか彫られており、その中にはマヤ、サポテカ、ムステカ(ワステカ)などのものも含まれておることから、この神殿では、遠隔地から集まった天文学者たちの何か重要な儀式が開催されたのではないかと推定されている。

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 神殿基壇の彫刻 @

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 神殿基壇の彫刻 A

基壇に刻まれた大きく口を開けた蛇は、マヤ人にとって、「ククルカン」(羽を持つ蛇)と呼ばれる神で、未開のマヤ人を文明化に導いた神的存在の人物の象徴である。
   

  

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 神殿基壇の彫刻 B

   蛇の上に乗ったマヤの神官の像が刻まれている。

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 神殿基壇の彫刻 C

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 タスコ(銀の町)

商店街は、銀製品を販売する店が建ち並んでにぎやかであるが、住宅街は、18世紀のコロニアル風の建物で簡素なたたずまいである。

     

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                      次回はユカタン半島のトゥルム遺跡を探索します。