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チチェンイッツア遺跡

 



 
 


チチェンイッツア遺跡には、「生け贄の泉」と呼ばれるセノーテ(泉)がある

 


ホテルを出発してチチェンイッツァに向かう。しばらく海岸沿いを走る間、真っ白い砂浜と紺碧のカリブ海を眺めながらおよそ2時間、途中、マヤ系のかわいこちゃんが踊るユカタン半島の伝統的な舞踊を見ながら昼食をとるが、私にとっては昼食などどうでも良い感じ。気持ちだけは早くも遺跡の前に飛んでいっている。

チチェン・イッツァ遺跡はユカタン半島北部の平原に位置し、ユカタン半島に散在するマヤ遺跡の中で、最も壮大で華麗な遺跡である。周囲6キロメートル四方の 広大な地域に遺跡が散在しており、850年頃にメキシコ湾沿岸地方からこの地に入ってきたと思われる、マヤ系イツァ人が築いた都市であるとされている。

彼らは、マヤ文明とアステカ文明の間に栄えたトルテカ的文化の要素をもっており、在来のユカタン半島北部のマヤの人々の伝統と融合して 、新たな 様式や文化を生み出していった。こうしてチチェンイツァは、ユカタン半島北部の中心地として栄えたのである。近年の資料から チチェンイッツァの全盛期は9世紀後半から10世紀ごろと考えられている。

「チチェン・イツァ」とは「イツァの泉の湧くところ」という意味である。チチェンイツァにはセノーテとよばれる泉が2カ所あり、そのうちの一つが、直径約60m、水面までの距離が約20mもある「生け賛の泉」と呼ばれる有名な泉である。 

ユカタン半島北部には、地表を流れる河川が少ないため、地下水が湧き出す「セノーテ」 (泉)は、この地方に住む人々にとっては最も重要な場所であった。それゆえ、古くからセノーテに「生け贄」を捧げる習わしがあり、「生け贄の泉」はその代表的な泉でその名の示す通り、この泉には、水の枯れぬことを願って多くの生け贄が投げ込まれたことが、近年、エリック・トンプソンらの発掘によって明らかになっている。


ククルカンのピラミッド

 



 
 


ククルカンのピラミッド。春分と秋分の日には北側の階段の欄干に
頂上の神殿から降りてくるククルカン(龍神)の影絵が浮かび上がる

 


チチェンイッツァの入り口をしばらく進むと、木々の間からククルカンのピラミッドが見えてくる。正四角垂のきれいなピラミッドだ。ただピラミッドといっても、エジプトのそれと違って頂上部分は平らになっていて、その上に神殿が建っている。メソアメリカのピラミッドは基本的にすべてこの形をとって おり、「マヤ・オルメカ探索の旅 @」で記した丸みを帯びた「魔法使いのピラミッド」は特殊である。

遺跡に着いた時はどんより曇っていて、とても日の射す雰囲気ではなかったが、4時過ぎにはすっかり雲が消て、素晴らしい天気になってくれた。 どうやら今回もまた、ククルカン(龍神)が神殿から降臨してくる姿を見ることが出来そうだ。 遺跡探索でも写真撮影でもそうだが、私はこのようにまるで天が手配して下さったように天候に恵まれることが多い。ありがたいことである。

ククルカンのピラミッドは、高さ24メートル、底辺が1辺59メール、9層からなる階段状のピラミッドで、頂上には神殿がある。このピラミッドはカスティーヨ(城塞)とも呼ばれ、全体が暦として設計されている。ピラミッドの各面には 91段の階段があり、4面を合わせると全部で364段になり、それに神殿の1段を加えるた365段は、太陽暦の1年の日数に相当する。

マヤの太陽暦は 、我々が使っている暦のように30日と31日が交差した365日ではなく、1ヶ月が20日で、18ヶ月から成り立っており、それに「不吉な日」とされる5日を加えて365日となっている。しかし、何故、加算される5日が不吉な日なのかについては、どの学者も納得のいく答えを持ち合わせていない。

ところが、不思議なことにエジプトにおいても、 およそ5000年前の古王国時代までは、一年を360日としていたふしがあり、365日制を使うようになった中王国時代以後も、しばらくの間、360日目を年の終わりとして祝い、「不吉な余りの日」として5日を加えていたことが「カノプス告示」に記されている。 また、南米ペルーでも、1年は12キラ(月)で1ヶ月が30日に分割されており、年末に、アルカカンと呼ばれる特別の5日が追加されている。

古代中国では、堯の時代に大艱難が起き、太陽が何日間も沈まない日がつづいた。その後、暦と実際の季節との間にズレが生じ、堯帝は天文学者に命じて、四季の長さを計り直し、新しい暦を作らせたことが、中国最古の書「書経」に記録されている。

これらの伝承や歴史的事実とをあわせて考えると、1年の長さは太古の時代から365日と一定していたわけではなく、過去のある時、宇宙的規模の一大異変が発生し て、太陽を回る地球の軌道にも変化が生じ、公転周期がそれ以前に比べて5日間ほど長くなったようである。

その時の一大異変 こそが世界的規模の大カタスロフィーをもたらすところとなった ものと思われる。それ故、その後の時代を生きる人々にとって、360日に追加されることになった5日間は、先史文明を崩壊へと導いた忌まわしい記憶を想起させる日として、「不吉な日」と呼ばれるようになったのではなかろうか、というのが私の仮説である。  
        

カラコル天文台

 

 
 


カラコル(かたつむり)と呼ばれる天文台

 

チチェンイッツァのカラコル(かたつむり)と呼ばれる建物が天文観測を行うための施設であったことは、確たる資料はないものの、多くの研究者が等しく認め ているところである。マヤの遺跡には、これ以外にも幾つか 天体観測を兼ねていたと考えられる遺跡が発見されており、複雑なカレンダーシステムの運用と天体観測が、マヤの神官たちにとって最重要の任務であったことを裏付けている。

それにしても、マヤ人の天文学の知識と天体観測の技術にはただただ驚かされる。その代表的なものが、地球の公転周期(太陽の周りを1周する日数)と金星との会合周期である。現代の最先端の観測装置による地球の公転周期 は365.2422日であるが、先進国と呼ばれるヨーロッパにおいて、16世紀後半(1582年)まで使われていた「ユリウス暦」ではその365.25日としており、その誤差は、0.0078日であった。

一方、16世紀より遙かに昔、その起源が未だにどこまでさかのぼるか不明なほど遠い過去の「マヤの暦」では、地球が太陽を一周する日数を365.2420日としており、その誤差はわずか 0.0002日しかなかった。因みに、1582年に法王グレゴリウス13世の命によって当時の科学知識を総動員して作られた「グレコリオ暦」(現在我々が使っている暦)では365.2425日となっており、その誤差は0.0003日で、わずかであるがマヤ歴より も大きくなっている。つまり、マヤ歴の方が正確だったということである。

また、マヤ人は金星との「会合周期」(太陽に対して金星と地球 との位置関係が、同じになるまでの年数)についても、583.92日という精密な数値を認識していた。この数値は、6000年間でわずか1日しか誤差が生じないという まさに驚異的な数値であった。

マヤ人のカレンダー・システムにはいまだ解明されない幾つかの大きな謎があり、 5200年という途方もなく長い長期歴がその代表である。2012年12月21日がその終わりの日として騒がれたのは、読者もご承知の通りである。2012年説についてはマヤの長老アレハンドロ氏は認めておらず、その正確な年については 一切語っていない。詳細について知りたい方は、拙著『2012年アセンション最後の真実』を読んで頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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