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神々の都市「テオティワカン」

 



 
 


「月のピラミッド」から眺めた「死者の大通り」

 

 

 

 
 


テオティワカンの復元図

月のピラミッドから死者の大通りを見下ろしている。死者の大通りの
左に見えるのが太陽のピラミッド。  さらに遠くに見えるのが
ケツァルコアトルの神殿で、広い城塞に囲まれている。 また、
死者の大通りはなぜか真北から15度30分東に傾いている。

 

 

およそ12世紀頃、メキシコ北部に住むメシカ人(後のアステカ人)と呼ばれる戦闘的な狩猟民族は彼らの守護神ウイツィロポチトリから霊示された「サボテンの上に蛇をくわえた鷲がいる場所」を求めてメキシコ半島を南下した。 その途中、中央高原にやってきた彼らは、すでに完全な廃墟と化した巨大な都市遺跡を発見した。

遺跡に散在する建造物の古さは想像を超えており、人間が造ったというよりは自然の一部のように見えるほどであった。しかし現存していた二つの巨大なピラミッドや城塞を見て、メシカ人たちはそこがかねてから噂に聞いていた神々の住む偉大な都市であったことを悟った。

その後、そこから50キロメートルほどのところに彼らの都市テノチティトラン(後のメキシコシティー)を築いたメシカ人(アステカ人)は 、廃墟となった偉大な遺跡を神々の住む神聖な場所として「テオティワカン」と呼び、後々まで崇拝の対象とした。16世紀にスペイン人に征服されたアステカの最後の皇帝モンテスマも、しばしばその地へ足を運び巡礼していたことが報告されている。

因みに、「アステカ人」と呼ばれる民族は、メシカ人とテノチティトラン周辺に住んでいたナワトル語族をまとめた総称で、19世紀になってスペイン人によってつけられた呼び名である。「メキシコ共和国」や「メキシコシティー」の語源もメシカ人から来ている。

この壮大にして巨大な都市の建造の時期については、紀元後150年から300年とされ、その後600年頃にかけて繁栄したとされている 。しかし、紀元前1500年から前1000年に最盛期を迎えたと主張する学者や、地質学的見地から近くの火山ヒトレが噴火した紀元前4000年よりも前に建てられたと主張する学者もいる。

 

 
 


エジプトの第一ピラミッドに次ぐ巨大な「太陽のピラミッド」

 

いずれにしろ、当時のテオティワカンは20万人を越す人口を擁していた推定されており、当時のヨーロッパと比較してみると、コンスタンチノープル以外には人口2万人以上に達する都市が見られないことから、テオティワカンがいかに壮大な都市であったかが、分かろうというものである。 もしも、紀元前1500年説や4000年説が正しいとすると、ヨーロッパ文明などものの数の中に入らないことになる。

テオティワカンはマヤをはじめとする同時代の都市遺跡とは異なる幾つかの特徴を持っていることも、謎の一つとされている。メソアメリカにおける都市センターは、何世紀にもわたってその造営と増改築が繰り返され、長い年月をかけて次第に都市として整備されていくのが普通であった。中にはモンテ・アルバンのように千年を越す長期間にわたって完成されたものもある。

ところが、テオティワカンでは、当初に設計された計画に従って、まず中央をほぼ南北に貫く大通りが建設され、その左右にあたかも碁盤の目状に神殿などのピラミッドの建造物が次々と建設されて、わずか百数十年の期間に20万平方キロメートルにも及ぶ壮大な都市が完成しているのだ。

一方、この都市には王や貴族、神官の他に農民、商人,工人などの一般の人々がともに住んでいたことが明らかになっており、他の都市とのきわだった違いを見せている。また、宗教都市センターとしては、珍しいことに、メソアメリカの他の遺跡には必ずと言っていいほどある球技場が発見されていないことも 、未解明の謎の一つとされている。

テオティワカンには文字らしき絵文字模様も幾つか発見されているが、その数も少なく解明にはほど遠い状況である。このため、テオティワカン人がいかなる種族の人々であったのか、また繁栄を極めた都市がなぜ8世紀頃に突然放棄され、彼らがどこへ消えてしまったのかなど、テオティワカン遺跡には未解明の謎が数多く残されている。

 

 

 
 



月のピラミッド

 


テオティワカンの遺跡は、その中央をほぼ南北4キロにわたって走る「死者の大通り」沿いに、「太陽のピラミッド」「月のピラミッド」「ケツァルコアトルのピラミッド」といった巨大なピラミッドや神殿群が無数に立ち並ぶ実に壮大な宗教都市跡である。

ケツァルコアトルのピラミッドを囲んだ城塞は、4キロ以上にわたる「死者の大通り」のちょうど中間地点にあり、ピラミッドの側壁には当時の人々が龍神信仰を持っていたことを示す龍の姿が描かれている (下の写真参照)。太陽のピラミッドはさらに「死者の大通り」を1キロほど北に上がった通りの東側に位置し、月のピラミッドは大通りの北の端に建っている (上段の写真参照)。

「月のピラミッド」に比べて「太陽のピラミッド」は遙かに大きく、底辺の周囲の長さはエジプトの第1ピラミッドの230メートルとほぼ同じで225メートル、高さは第1ピラミッドの147メートルに対しておよそ半分の71メートル。エジプトのピラミッドが地球の大きさの43200分の1の縮図であることは 拙著『謎多き惑星地球』に記した通りであるが、どうやらテオティワカンのピラミッドも円周率π(パイ)を使って、地球の大きさを表しているようだ。

「死者の大通り」はその方位が「太陽のピラミッド」の西面と同様、何故か真北から15度30分ほど東側に傾いているが、その方位には天文学的に重要な意味が込められている。「死者の大通り」と「太陽のピラミッド」の西面に対して直角の方位(真西に対して15度30分北)は、太陽が「ピラミッド」の真上を通る5月19日と7月25日に、太陽が沈む地平線の1点を指しているのだ。

北緯23度30分の北回帰線では6月21日の夏至に太陽は真上を通るが、北緯 19.5度に位置するテオティワカンでは5月19日と7月25日の正午に、太陽がピラミッド の真上を通過する。またその日の夜明けには、太陽を先導するように牡牛座のプレアデス星が東の空から昇ってくる「ヘリアカルライジング」と呼ばれる現象が見えるのである。

エジプトのスフィンクスが建造されたとされる紀元前1万数年前後に、太陽と一緒にヘリアカルライジングするのが獅子座であるように、過去の天文現象にさかのぼって調べれば、テオティワカンの建造年代を推定することが出来るかもしれない。

 
 


 
 


「ケツァルコアトルのピラミッド」には、龍の頭部と胴体が彫られている。
それは、古代メキシコでケツァルコアトル、ペルーでククルカンと呼ばれていた
神(宇宙から飛来した存在)が龍神系の人々であったことを示している。

 

 

 










 

 

 

 

 


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